誤った熱心   ローマの信徒への手紙9.30-10.4     2020.5.24 

聖書の中には難しい言葉が多く出てきます。その一つが義です。この義という言葉は難しいというだけでなく、大変重要な言葉でもあります。それは旧約聖書の時代から一貫して中心をなしてきました。日本人にとっては義理人情とか、忠臣蔵に出てくる忠義といった意味で馴染みがあります。人の道、主に人間関係においてです。聖書において義とは、神の義として出てきます。あるいは信仰による義、それらは一言でいうならば神の救いという意味で使われています。

今日の聖書にはその義が語られています。次のような文脈においてです。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」。一方の異邦人、彼らは義を求めなかったにもかかわらず義を得た。もう一方のイスラエル、彼らは義を追い求めていたにもかかわらずそれを得ることができなかった。いったいこれはどういうことでしょうか。パウロはこう述べています。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」。

イスラエルの人々は旧約以来、契約の民、律法を与えられた民として歩んできました。それは大きな恵みであり、まさに神に選ばれた民として信仰の歴史を担ってきたのでした。ただし彼らが立派であったからとか、優れていたからというのではなく、ただ神の選び、憐みによるものでした。それは今日の教会、そこに連なるキリスト者も同様です。ところがいつの間にか神の恵みが後退してしまい、自分自身の力、自分の信仰という部分が強調されるようになってきたのです。イスラエルの人々は神の民であることを自分たちの誇りとし、与えられた律法の遵守を自分たちなりに励んでもきたのでした。

イエス・キリストの宣教は、それに対して信じる信仰の大切さが中心でした。律法に忠実であろうとしてもそれを行い得ない人間の罪や弱さに目を向けられ、反対にそれを行っているというファリサイ派の人々の偽善を厳しく追及されたのです。キリストを信じる信仰による義、それはユダヤ人にとってはそれまで自分たちが大切にしてきた律法の行いをないがしろするような主張であり、イエスはまさに彼らにとってつまずきの石となったのでした。そして実際彼につまずきました。その結果がイエスの十字架です。けれどもここに逆転が起こりました。旧約の預言者イザヤが語ります。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望に終わることがない」(イザヤ28.16)。イエス・キリストという石、岩には二つの面があります。一つはつまずきの石、妨げの岩という面です。イスラエルにとってまさにそうでした。彼らのように自分の義を立てようとする者にとって、キリストはつまずきの石だったのです。反対にもう一面があります。キリストを信じる者にとっては、その石はつまずき、妨げではなく、むしろ救いであり、決して失望することがない堅い石、岩となったのです。

もちろんイスラエルの義を求める態度、律法への取り組みは彼らなりの信仰から、また善意から出たものであり、悪意があったわけではありません。ただしその熱心さには無知が伴いました。パウロはこう語っています。「わたしは彼らが熱心に神の仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」。彼らが熱心に神に仕えていることは確かである。しかしその熱心さの内容、方向が間違っていたのです。あるときイエスは弟子たちに向かって、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と言われました(ヨハネ16.2)。そういう熱心さがあります。現代でもいろいろな分野に間違った熱心さがあります。パウロ自身もかつてはそうでした。キリスト者を迫害することが、ファリサイ派の一人として神に仕える証しと考えていた時代のことです。このような熱心さはたとえ悪意がなくとも、無知によるものだったのです。アウグスティヌスは、そのように道を踏みはずして勇ましく歩むより、おぼつかない足取りであってもキリストに向かう方が望ましいというようなことを語っています。どれだけ熱心であっても、その熱心さに力強さであっても、向かう方向が反対であれば、それだけますますキリストから早く、しかも遠くへと離れていってしまうだけなのです。

義を求めなかった異邦人が義を得、それを熱心に求めていたイスラエルが得られなかった。義、すなわち救いは人間の努力や能力で得られるものではなく、ひとえに神から与えられるもの、恵みの賜物です。それが信仰による義です。これに関してイエスは興味深いたとえを語られました。ぶどう園の経営者が夜明けと共に労働者を雇いました。その後、昼にも午後3時ごろにも人を雇います。夕方の5時ごろに広場に行ってみると、まだ何もしないで立っている者がいました。だれも声をかけてくれなかった、雇ってくれなかったからです。現在のコロナウイルス感染がもたらした経済危機により、失業に追い込まれた人々のようでもあります。それでもぶどう園の主人は彼らをも雇ったのでした。そして賃金を支払う段階になります。最初に夕方5時に雇われた者が呼ばれ、1デナリオンの賃金を受け取りました。最後に夜明け前から働いた者が呼ばれました。彼らも1デナリオンでした。これは最初に契約した賃金です。そこには何ら不正はありません。ただ夕方5時、たった1時間しか働かなかった者も同じ賃金だったので、自分たちが不当に扱われたと感じたのでした。5時に雇われた労働者に対する経営者の扱いにより、自分の所有、自分自身の存在さえ貧しく感じられるようになったのです。ここには人間の働きや能力ではなく、それを超えた神の気前のよさ、神の恵みが強調されています(マタイ20.1以降)。

「キリストは律法の目標(終わり)であります。信じる者すべてに義をもたらすために」。義は行いによるのではなく、信じる者すべてに等しく与えられる神からの贈り物です。それはイスラエルも異邦人も、わたしたちすべてに与えられる恵みであり、ただキリスト・イエスを信じる信仰によってのみ得られるものなのです。わたしたちはそのもとで今も生かされているのです。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第7_2020年5月24日