真理の霊   ヨハネによる福音書14.15-27    2020.5.31 

今日は教会の誕生日であるペンテコステです。初代のクリスチャンたちはまことに弱く貧しい存在でした。弟子たちと共に地上を歩まれたイエスが目に見えるかたちでおられなくなった後、彼らだけでどのように信仰の共同体を維持し、成長させていくことができるのだろうか。そのような弟子たちのところに、聖霊が降り、彼らを勇気づけ、イエスと共にいたときと何ら変わることなく、むしろそれ以上に彼らはしっかりと立たせ、その結果イエスの信仰を宣べ伝えていきました。それが教会の始まりであり、ペンテコステの出来事でした。

わたしたちの教会はイースター礼拝と同様、本日のペンテコステ礼拝でも一堂に会しての礼拝を見合わせました。教会に迫害が起きているわけではありませんが、ある意味では逆境の中をここ2か月余り歩んできました。それでも礼拝を止めることなく、神の恵みを発信し続けてきました。今のような不自由な環境の中にあっても、精一杯工夫をしながら主日礼拝を守り続けてきました。この朝の礼拝も同じです。

この朝の聖書は、ペンテコステによく読まれる箇所の一つです。イエスが十字架の道へと進むにあたり、弟子たちに向けて語られた最後の重要な箇所で、一般に告別説教と言われるところです。従ってここにはイエスの十字架を前にした並々ならぬ決意、これから残されていく弟子たちの恐れや不安、そのような弟子たちを思いやるイエスの励ましが語られています。イエスが去ることにより、自分たちだけが残されることになる弟子たち、彼らがいかに心細かったか、また実際に不安定な立場に置かれることになるのか、それはイエスにも分かっていました。弟子たちのそのような立場を言い表したものが「みなしご」です。イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われました(18節)。これは励ましの言葉ではありますが、逆の面からは弟子たちの立場を述べてものでもあります。「みなしご」、いわゆる両親、家族など世話をする者が一人もいない、しかも子ども(孤児)です。旧約聖書の時代から最も弱い立場の人として、いつも孤児があげられてきました。その他には寡婦と寄留者がいます。この三者が社会で最も助けを必要とする人々として出てきます。これは聖書の時代だけでなく、現代社会においても同じではないでしょうか。特に世界規模の新型コロナウイルス感染が蔓延する中、そしてそこから来る経済危機によって、こうした人々がいっそう深刻なしわ寄せ受けています。

みなしご、これがイエスなき後の弟子たちを姿でした。ところがその弟子たちに向かってイエスは言われたのでした。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。子どものように弱くて、未熟で、しかも一人ぼっちのままにはしておかないと言われたのです。ならばどうするのか。イエスは言われます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。「弁護者」、この言葉はそれ以外にもいろいろな訳が可能です。助け手、慰め主、後見人、仲介者等々です。その弁護者があなたがたに遣わされて、いつまでも一緒にいてくださるというのです。ならばその弁護者とは誰のことでしょうか。「真理の霊」です。弁護者とは弟子たちにこの朝降り、真理を教え、導き、しかもいつも一緒にいてくださる聖霊のことなのです。わたしたちと共に歩んでくださる、いわゆる同伴者です。

パラリンピックの選手などをテレビで見ることがありますが、その中で視覚障がい者の陸上競技があります。彼らには必ず伴走者がついています。二人が互いに手を紐のようなもので結んで、一緒に走る人です。わたしたちの教会にもそのようなボランティアをしている方がおられます。見ているとすごいですね。かなり速いスピードで走り、あたかも晴眼者と何ら変わりありません。それを可能にしているのが伴走者であり、その人に対する信頼があってこそあれだけ速く走ることができるのだと思います。

聖霊はわたしたちの外から、また内からわたしたちを励まし、導き、いつも共に歩んでくださいます。わたしたちの同伴者なのです。「神は我々と共におられる」、いわゆるインマヌエルなる神は、イエスの誕生において語られたものですが、今聖霊の降臨においてもまた神は我々と共におられることが別の姿、働きであらわされていくのです。だから弟子たちは決してみなしごとはならず、むしろさらに力強く教会を形成していくようになっていったのです。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ここに「別の」という小さな言葉があります。気づかれたでしょうか。「父は別の弁護者を遣わして」、ということは弁護者は一人ではなく、もう一人おられるということです。ならば最初の弁護者とは誰でしょうか。それこそ今この言葉を語っておられるイエスご自身なのです(1ヨハネ2.1)。イエスご自身もまた弁護者、助け主、後見人、そして同伴者なのです。聖霊を「真理の霊」と呼びましたが、イエスもまた真理でした。「わたしは道であり、真理であり、命である」とご自身について語られたとおりです(14.6)。

確かにイエスは弟子たちの前から、目に見えるかたちでは去っていかれました。けれども新たに真理の霊である聖霊が弟子たちに降ることによって、彼らを、また教会を導くのでした。その聖霊が今もわたしたち一人ひとりの上にとどまっています。そしてわたしたちにイエスが語られたことのすべてを教え、イエスご自身が今も共にいてくださることを示してくれるのです。現在もこの地上を旅するわたしたちはみなしごのように弱くもろい存在ではありますが、決してみなしごそれ自身ではなく、むしろ聖霊の力を受けることによって確かな足取りで歩んでいくことができるのです。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第1(ペンテコステ)_2020年5月31日