麗しき足   ローマの信徒への手紙10.14-21    2020.6.28 

皆さんもどこかで耳にしたことがあると思いますが、キリスト教は啓示の宗教です。啓示というのは、上から、外から、具体的には神がご自身を現されたところから始まる宗教ということです。これを反対側から言いますと、キリストの信仰は人間の内には備わっていない、まったく異質なものなのです。どれだけ真面目に信仰の道を捜し求めたとしても、海の果て、地の果てまで行って真理を求めようとしても、また難行苦行しながら修行を積んだとしても、人間自身によってこの信仰に至ることはできません。あくまで神から始まる、神が語るところからわたしたちに信仰が生まれるというものだからです。それが啓示です。

アブラハムがそうでした。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい』」(創世記12.1)。「まず主がこう言われた」、そこからアブラハムの信仰が生まれ、彼の人生がその信仰に導かれていくのでした。モーセもしかりです。モーセが人生の道に迷い、旅の中あったときのことです。神は柴の間から声をかけられました。「モーセよ、モーセよ」。そこでモーセは立ち上がり、信仰者としてイスラエルの民のために自らを献げました(出エジプト3.4)。新約においても同様です。もともと伝道者とはまったく関係のないペトロを初めとしたガリラヤの漁師たち、彼らにイエスは声をかけられました。「わたしについて来なさい」(マタイ4.19)。ここから信仰が生まれ、その後の彼らの生涯がまったく変わってものになっていくのでした。

先週開いた聖書の最後のところは、今日の箇所の直前の13節でした。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。そして今日の14節が始まります。一応ここから新しい段落なので今日は14節から始めましたが、しかし前の箇所と無関係というわけではありません。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と前の箇所にありました。そのように「呼び求める」という点では、前後はつながっています。それは今日の冒頭、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とあるとおりです。そこからさらに次のように続きます。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。ここには「どうして?」という言葉が4回繰り返し出てきます。そして少しずつクライマックスへと内容が高められていきます。それを注意深く読んでいきますと、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」との過程が、だんだん先へと、元へと遡るかたちで語られていることが分かります。人が主の名を呼び求めるためには、福音を信じることが必要です。それを信じるためには聞かなくてなりません。福音を聞くためにはそれを宣べ伝える者が必要とされる。そして最後に、これがすべての出発点ですが、宣べ伝える者は神の派遣によって成り立つということです。つまり神が遣わされた者による宣教から始まって、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という恵みに至るのです。「主の名を呼び求める」とは、人間の内発的な態度、人間の側から生まれた信仰のように聞こえますが、このように見ていきますと、その前に神の呼びかけ、働きかけがあるということであり、それに応答するかたちでわたしたち人間の呼び求めが続くというものなのです。どこまでも信仰は神の先行によるものなのです。

その先行の働きを担ったのが神から遣わされた者です。このように書かれています。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。今日の宣教題は「麗しき足」としました。美しいを麗しいという難しい漢字にしましたので、表の宣教看板を書く人には嫌われたかもしれません。これは口語訳聖書から取りました。そこではこう書かれています。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」。ここでもう一つ違っていることは、「麗しいかな」が最初に来ていることです。こちらの方が原文に忠実な訳です。今のわたしたちの聖書で言えば、「なんと美しいことか」が前に来るということです。それがまず強調したかったということです。これは元々はイザヤの言葉で、バビロン捕囚からの解放を伝える伝令のことを述べたものですが、それをパウロは福音の使者として用いています。

以上をまとめたものが17節の次の言葉です。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。始まりは、すなわち人間のすべての始まりは、キリスト・イエスにあるのです。それ以外のところに始まりはありません。そこは行き止まりです。それ以外のところにわたしたちは道を求めても徒労に終わるだけなのです。イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6.35)。「この水(井戸や水道の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(同4.13-14)。ここからわたしたちは水を汲みとることによって、初めて命に至るのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

キリスト教は伝道の宗教です。なぜなら人間の自主性、内発性によって信仰が生まれるのではないからです。そのためにはわたしたち一人ひとりが「良い知らせを伝える者の足」とならなくてはなりません。あらゆる機会を用いてです。この世界は渇いています。飢えています。それを満たすことのできるのは、ただイエス・キリストによるほかありません。それをこの世界は知りません。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして、聞くことができよう」。わたしたちは自らを養いつつ、その永遠の糧であるキリストの恵みを他者と分かち合っていくのです。それが教会の働きなのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第5_2020年6月28日