秘められた計画   ローマの信徒への手紙11.25-36    2020.7.19 

今日開きました聖書の箇所、ここは11章の最後の箇所となりますが、それだけにとどまらず9章から語られてきた一連のテーマの結びの箇所でもあります。9章、10章、そして今日の11章の共通したテーマ、それは旧約時代のイスラエルの民と新約時代のキリスト者、すなわち教会との関係です。大きく括れば、旧約聖書と新約聖書の関係なのです。初めはイスラエルが神に選ばれた契約の民として立てられました(旧約聖書)。ところが彼らはキリストを認めず、福音に背を向けたため、異邦人が代って神の恵みにあずかる者となりました。教会です。ならばそれまでのイスラエルの民はどうなるのだろうか。このようなことがこれまで語られ、今日の箇所がそのまとめになるのです。

それはこんな言葉から始まります。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」。「秘められた計画」、これはギリシア語で「ミュステーリオン」と言います。英語のミステリーに相当する言葉で、奥義とか秘儀とも訳すことができます。ミステリーといえば、ミステリー小説のように謎めいた言葉に聞こえますが、そうではなくわたしたち人間には分からないが、神の啓示によってのみ示される隠れた計画のことです。それが秘められた神の計画です。

旧約の民イスラエルは一度は不信仰、不従順ゆえに神から遠ざかりました。その彼らに代って異邦人が、言い換えれば教会が新たに神の契約の担い手となっていきます。しかしそれが最後の状態というわけではありません。それをパウロは次のような言葉でイスラエルを言い表しています。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがた(異邦人)のために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」(28節)先祖たちとは、モーセやアブラハムのことです。確かにイスラエルはかつては神の敵となった。けれども神の愛が決して途絶えることはありませんでした。それが「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と続く言葉で言い表されています。「神の賜物と招きとは取り消されない」。わたしたち人間は絶えず変わります。良い方向に変わる場合もあれば、そうでない場合もある。今日が信仰的であっても、明日は疑いや不信仰に陥ることもあります。積極的で前向きになれるときがあると思えば、消極的で愚痴っぽくなるときもあります。しかし信仰はわたしたちのそうした状態に左右されるのではなく、「神の賜物と招きとは取り消されない」ことによって成り立つものなのです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解さえていただいた」(5.10)、その神からの賜物と招きは変わらないのです。たとえ人間が変わっても(また実際に変わる)。

この世界は多くの分からないことで満ちています。現在新型コロナウイルス感染が世界中に蔓延し、その中をあたかも霧の中を歩んでいるようなわたしたち人間の姿もその一つです。世界の指導者たち、それが政治家であれ科学者であれ、立場上は断定的に言わねばならないことではあっても、実際のところは五里霧中で行きつ戻りつしながらというのが実態ではないでしょうか。誰にも分からないのです。それはウイルスのことだけではありません。わたしたち自身の歩み、これからのこと、あるいは自らの健康のこと、そうしたことを取っても分からないことだらけです。それでも分からない、今は見えないからといって、いたずらに不安を感じたり、投げやりになったりすることはふさわしくありません。反対に分かったふりをしたり、独断的であったりする必要もありません。なぜならわたしたちの目には今は見えなくても、隠されていても、「神の賜物と招きとは取り消されない」との下、「神の秘められた計画」がわたしたちの歩みを支配しているからです。今は分からないからといって、その中をただあてもなく漂っているのではなく、はっきりとした神の意志の下にわたしたちは生きている、生かされているのです。今は耐えなくてはならないかもしれません。それでも忍耐は練達を、練達は希望を生み、希望はわたしたちを欺くことがないと聖書は教えています(5.4)。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(33節)と、その神の偉大さを讃えています。世界の歴史は、そしてわたしたち一人ひとりの生涯は、その神によって導かれているのです。人間には歴史を切り開く意欲があり、探究心もあります。自らの生涯を少しでも実りあるものにしたいと思う熱意や知恵もあります。もちろんその反面には、破れがあり、失敗があり、堕落もあるでしょう。そうしたいっさいを超えて、神の意志、知恵、神の秘められた計画が確実に遂行されていくのです。パウロはある箇所でこう述べています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント13.12-13)。わたしたちの現在は質の悪い鏡、曇った鏡に映ったものを見ているような、そのような限界があります。そのようにしか見えませんが、もちろん背後では神の「ミュステーリオン」、はっきりとした神の意志と御計画が働いています。その間を、そしてその今を生きるわたしたちを支えるのが信仰であり、希望であり、愛なのです。こうした神の変わることのない賜物によってわたしたちが生かされていることを覚え、不安や恐れの中にあっても勇気と喜びをもって歩んでいきたいと願います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。
※配信映像がPC不調によりカクついていますが、音声は正常です。

聖霊降臨節第8_2020年7月19日