賜物はいろいろある   ローマの信徒への手紙12.3-8   2020.8.9 

現在新型コロナウイルス感染の拡大により、不要不急の外出自粛という言葉をよく耳にします。そのため自宅にこもることが多くなったのではないでしょうか。わたしもそうです。それは同時に人と話す機会が少なくなったということでもあります。子どもたちにとっても、夏休みが短くなるなど不規則な夏を迎えています。そうした中、テレビなどを見ていますと、子どもたちは早く友だちに会いたい、一緒に遊びたいというようなことを言っていました。これは子どもにかぎったことではなく、大人にとっても人と会い、友だちとおしゃべりすることは必要なことです。人間は社会的な動物と言われるゆえんです。それは教会にとっても同様です。皆さんもこれまで自宅で祈り、あるいはネット中継によって礼拝を守ってきましたが、やはりこうして教会に来て皆と一緒に礼拝を守れるのは大きな力となるのではないでしょうか。礼拝とは、誰に向かって礼拝を守るかというだけでなく(もちろん神に向かって)、誰と共に礼拝を守るかも重要な要素だからです。

それを教会では交わりと呼んでいます。これは一般社会における社交とか、趣味のグループの交流ではありません。教会の交わりとは、キリストを中心とした、またキリストに基づいたものであり、これをキリストの体としての教会と言います。今日の聖書の5節で述べているとおりです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。

この交わりを育てるために、言い換えればキリストの体である教会を造り上げていくために使徒パウロはまずこのように語りました。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。自分を過大に評価してはならない。むしろ慎み深く評価すべきです。人間の弱点の一つはここに見られるように、高ぶったり傲慢になったりするなど、正しく自らを評価できないことにあります。その分きまって他人をないがしろにしやすいものです。このことは信仰者である教会員だけでなく、一般社会の人々においても同じです。だから謙遜や慎み深さは普遍的な美徳となるのです。ならばパウロはローマの信徒たちに対してどのように語っているのでしょうか。そこで鍵となるのが、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」という言葉です。この神から与えられた信仰を基準とすることによって、自らを正しく評価できるというのです。ここからは過大な自己評価は生まれません。もちろんその反対の過小評価もありません。自分なんか大したことはできない、能力などもないという思いも、この信仰の基準からは生まれないのです。「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る」とありますように(2コリント10.13)、過大評価もしなければ、反対に過小評価もしないのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(1コリント8.1-3)。これは絶えず神を礼拝し、その信仰によって支えられていることから生まれる慎み深い自己評価なのではないでしょうか。

キリストの体なる教会、それは中心にイエス・キリストがおられ、わたしたちはその部分(肢体)という関係にあります。このことはわたしたち人間の体を思い浮かべればよいと思います。人間の体は多くの部分から成り立っています。目に見える耳や目、口や鼻があれば、また内側にある心臓や胃や腸もあるという具合です。そこから知らされることは三つあります。一つは体は多くの部分から成り立っていること。二つめは各部分はそれぞれ独自の働きをしていて、何一つ同じものはない。三つめはそれぞれ独自の働きはしていても、相互に深く関係しているということです。これがわたしたちの体です。健康は肉体を意識しないと言います。いわゆる体が軽いということです。肉体を意識するのは、調子が悪いときです。歯があることに気づくのは痛みが出たときです。胃腸を意識するのはその調子がおかしくなったときです。そのように相互に各部分は関係しているのです。

このような関係が、まさしくキリストの体としての教会にも当てはまります。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。そこでパウロは言うのでした。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」。賜物、これをギリシア語でカリスマと言いますが、それは決して特別の能力といったようなものではなく、誰にも神から与えられているものなのです。カリスマのない人は一人もいません。ここには預言の賜物から始まり、奉仕の賜物、施しや慈善の賜物が列挙されています。1コリント書12章を読みますと、もっと詳しく賜物が記されています。わたしたち野方町教会でも毎年奉仕者の募集を行い、それが一覧表としてまとめられています。ここからもいろいろな奉仕、その賜物が神から与えられていることが分かります。会堂の花生け、礼拝のための看板書き、会堂清掃、奏楽、週報発送等々、そこには多くの、しかも異なった働きがあります。わたしたちは一人で多くを担う必要はありません。たった一人が全体である必要はないのです。一人ひとりはその独自の働き、体で言えば部分に徹することです。主キリストに結ばれているならば、相互に影響を与え合い、そのとき全体の益となっていくのではないでしょうか。この場合一番いけないことは、与えられた賜物を土の中に隠して使わないことなのです。ペトロは自らの手紙の中で次のように述べています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(1ペトロ4.10)。過大評価でもしなければ、過小評価することもなく、神の恵みによって与えられた固有の賜物を互いに生かして用いること、これこそわたしたちが歩みべき道なのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第11_2020年8月9日