喜ぶ者と共に喜ぶ   ローマの信徒への手紙12.9-21  2020.8.16 

昨日の815日は、75年目の敗戦(終戦)記念日でした。皆さんもそれぞれの思いをもって迎えたことと思います。わたしもこの夏には2冊ほど、戦争と平和に関する本を読みました。わたしたち日本の加害者としての戦争、また被害者としての戦争という両面があり、その中には住民が巻き込まれた沖縄戦や、先週の広島・長崎の原爆被災がありました。それ以外にも空襲、貧しさなどいろいろな戦争体験が今も語り継がれています。そのようなことを思いながら、今日の聖書の言葉を読みました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(18-19節)。

聖書の中心は愛です。愛が人間の、そして世界の一番の基礎となり、物事の一番初めとならなくてはなりません。その愛(アガペー)とは、キリストの十字架による罪の赦し、すなわち贖罪の愛のことです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(5.8)と語るとおりです。その愛を受けて、わたしたちも同じ愛の人として歩んでいきます。それは自分を捨てた、自分を後回しにした偽りのない愛であり、自分中心ではなく他者に重きを置くものです。しかしこの愛に生きることはいかに難しいことでしょう。この愛が人間の手に移ると、それはさまざまな問題を抱えることになります。「愛には偽りがあってはなりません」とはそのような人間の限界、不純さを警戒した勧めと取ることができます。愛という言葉の美しさ、愛から生まれた行動の崇高さ、もちろんそのまま素晴らしいものもありますが、他方では偽りの愛もあるでしょうし、その巧妙さゆえに他人を欺くだけでなく、自分自身をさえ欺いていく可能性をもっているのです。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛(フィラデルフィア)をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。これがキリストの愛から発する、隣人愛の内容です。と同時に、それはいつも神に向っての礼拝、祈りと並行して進むべきものであることを教えます。それが次の言葉です。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」。ここには目覚めた信仰生活、惰性に流れることなく、むしろ聖霊の炎に力づけられて主を礼拝し、たゆまず祈ることの大切さが語られています。そのとき信仰者はたとえ自分にとって不本意なこと、苦しいことがあったとしてもそれでつまずいてしまうのではなく希望をもって耐え忍んでいくことができるのです。そのことは同じローマ書で以前読んだ5.3以降でも力強く語られたものでした。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」。

この愛についてまとめたものが15節と言ってよいと思います。「喜ぶ者と人に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。これこそ神の愛に押し出された信仰者が、隣人と共に生きるもっとも素晴らしい姿です。ところが方向としては素晴らしのですが、現実には何と難しいことかをもわたしたちは知っています。ここにも偽りの愛が入ってくるからです。「喜ぶ人と共に喜ぶ」、これは決して自明のことではありません。旧約時代のダビデ、彼は悲願であった神の箱をやっとエルサレムに運び上げることができました。そのときダビデは他の者たちと共に喜びの叫びをあげながら行進しました。けれども彼の妻ミカルは窓からその様子を冷ややかに見下ろしていました。それを聖書は次のように記しています。「主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内でさげすんだ」(サムエル下6章)。「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことの難しさの一例がここに見られます。

他方では「泣く人と共に泣きなさい」とあります。これについても同じく旧約のヨブを思い起こします。自らの病や家族の死に直面して、彼は苦難のどん底に突き落とされました。なぜ神を信じて歩んでいるのに、このような苦しみが次から次へとおとずれるのか。そこへやって来た彼の友人たちは、ヨブを慰めるどころか、難しい神学を背景にして、それは罪の結果によるという因果応報を語ったり、苦難の教育的な意義を強調したりと、現に泣いているヨブに寄り添うことをそっちのけでひたすら議論を仕掛けていくのです。ドイツ語にシャーデンフロイデという言葉があります。フロイデ(喜び)の前にシャーデン(損害)がついた言葉で、意味は「人の不幸を喜ぶ」といった意地の悪い心理を指したものです。いやな言葉です。ヨブの友人たちにそうした気持ちもあったかどうかは分かりませんが、人間の中には意識的に、あるいは自分で気づかなくともこうした心理が他人の不幸に対して存在することに恐れます。だからこそ冒頭「愛には偽りがあってはなりません」という言葉が、余計厳しく聞こえてきます。

そして今日の箇所の最後はこの言葉で結ばれています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。これもキリストの愛の社会展開の一つと言えます。この世界は、わたしたち自身も含めて、神に敵対する肉の世界です。絶えず争いがあり、迫害があり、誤解があり、戦争がある世界です。当然そこから憎しみが生まれ、報復が生まれ、終わることのない争いの連鎖となります。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」とありますが、これを文語訳聖書では「復讐するは我にあり」と訳しています。これは人間の復讐を正当化するように受け取られがちですが、我とは神のことであって、人間ではありません。究極的な裁きは神の事柄であって、わたしたち人間が先走って裁いてはならないというものです。人間は怒り、憎しみに任せて、それが正義の名のもとであっても悪に打ち勝とうとしますが、結局は悪人・敵に打ち勝ったとしも、悪を克服したことにはなりません。依然として悪や憎しみの支配下に置かれたままなのです。そうではなく「善をもって悪に勝ちなさい」。イエス・キリストがどこまでも十字架において赦しを与えてくださった、その赦しに押し出されて歩んでいくこと、それがわたしたちの進むべき道ではないでしょうか。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第12_2020年8月16日