隣人愛   ローマの信徒への手紙13.8-10     2020.8.30 

教会学校では今朝の週報にも記していますように、8月いっぱいは夏期態勢で臨んでいます。具体的なこととしては、いつもはCS教師が担当しているのですが、この期間は他の方々におはなしをしてもらっています。そこでは、たとえば和田幸恵さんが1万タラントンの借金を赦された僕の箇所を取り上げられました(マタイ25章)。また相馬美知恵さんは善いサマリア人の聖書を選び、ご自身の医療事業について話をされました(ルカ10章)。赦しそして隣人愛、この二つは聖書の重要な主題であり、今日の箇所とも非常に深く関係しています。

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」との言葉をまずわたしたちは読みました。この言葉、分かったようで分かりにくいように思います。皆さんはいかがでしょうか。別の聖書ではこう書かれています。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です」(新改訳2017)。文章を二つに区切ったこちらの方が分かりやすいように思います。ここの借りという言葉が出てきます。実はこの言葉、前の節とつながる連続したものです。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」。この義務を果たすとの言葉、借りと同じ原語です。自分の義務、それは税金を納める義務など、この世的、社会的責任のことです。これに関しては、ほとんどの人は義務を果たしているのではないでしょうか。あるいはだれかから借金をする、何か借りをつくることも同様です。生涯を終えるとき、まだ借金を返済していなくて、子どもに残してしまうケースもありますが、このような社会的また個人的な借りはあってはならないということです。ただし「互いに愛し合う」ことは別で、その借りは決して返済しきれない、借金を負ったままだということなのです。これを無限の負債といいます。

愛は最も大いなるもので、キリストの十字架にその基を置いています。そこから「隣人を自分のように愛しなさい」との教えが、律法を全うするもの、集約するものとして述べられています。この言葉はもともと旧約聖書レビ記にある言葉ですが(19章)、それをキリストはさらに新しい十字架の光のもとで捉えなおされました。旧約時代、隣人とはイスラエルの同胞を中心としたものでした。つまり仲間内です。それに対してイエスは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか……自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れてことをしたことなろうか」と問題を投げかけ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました(マタイ5章)。

一昨日の828日は、1960年代の公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師が有名な「私には夢がある」との演説を行ったワシントン大行進の日であり、今年もそこで大きな集会が開かれていました。そのキング牧師が「汝の敵を愛せよ」との説教の中でこんなことを言っています。イエスは「汝の敵を好きになれ」と言われなかったのは、われわれの幸いとするところである。まずどうしても好きになれないような人々はいるものである。好きになるとは、センチメンタルな情愛の深い言葉である。しかしイエスが愛せよと言われる場合、それは創造的・贖罪的な愛について語っておられるのだ。それが十字架の愛であり、この愛に照らされてはじめて、わたしたちは仲間内、すなわち自分によくしてくれる人だけでなく、それを超えて好きになれなくても、さらには敵をさえ愛していくことができるのではないでしょうか。愛は自分一人では実践できません。必ず相手を必要とします。しかもその相手とは、たとえ自分が苦手としている人であっても、迫害する者であってさえもです。キリストの愛と赦しは決して返済できない無限の負債ですが、それでも自分が赦された者として、隣人をとおして借金を返済していくのです。それが日々の信仰生活です。

それではイエスのいう隣人とはだれでしょうか。これを見事に言い表しているのが「善いサマリア人」のたとえです。というのはこの話こそ、「わたしの隣人とはだれですか」との問いに答えるものであったからです。細かくは話す時間はありませんが、ある人が旅の途中で追いはぎに襲われ、半殺しの状態になりました。たまたまそこを通った同胞の二人(しかも宗教人)は見てみぬふりをして通り過ぎていきました。三番目に通った人、この人はサマリア人でした。すなわちユダヤの人とは仲が悪かった人です。この人が立ち止まり、助けたという話です。そこでイエスは最後にこう問いかけられました。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10.36)。ここで注目したいのは「なる」という言葉です。隣人はいるのではなく、隣人になるのです。日本では昔から向こう三軒両隣といっています。わたしも最初のこの教会に赴任したとき、そうした人々に挨拶しました。もちろんこうした距離の近さから来る、隣人、お隣さんという場合はあります。けれどもイエスがここで語られた隣人とは、そうした距離の近さ、血のつながりではなく、どのような関わりを持つかによって得られる、内容を伴った関係だということです。自分の助けを必要としている人、自分を必要としている人に手を貸すことです。そのことを通して、はじめて隣人になり、隣人を得るのです。隣人は自動的に存在しているのではありません。

キリストによって与えられた大いなる赦し。それは決して返済することのできない無限の負債であったにもかかわらず、すべてを帳消しにしてくださいました。その中で、キリストは日々隣人愛という課題をわたしたちに与えておられるのではないでしょうか。そのことをとおして少しずつ、この赦しに答えていこうとするのです。めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う。そして互いに重荷を担う。それがわたしたちに与えられた課題であり、また同時に恵みでもあるのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第14_2020年8月30日