欠けているもの マルコによる福音書10.17-22 2020.9.20
今年も恵みの内に、召天者記念礼拝をこうして開催することができました。今回の礼拝は、やっと開催できたというほうが正確かもしれません。というのは、この春の墓前礼拝は、現在も世界中に蔓延している新型コロナウイルス感染の影響を受けて中止にせざるをえませんでした。コロナ禍は今も続いていますが、秋の召天者記念礼拝は何とか行いたいと考えてきました。そのためには通常の礼拝では安全性が保てないということから、長老会を中心に三密を避けるなど大変配慮してきました。そして今日を迎えました。わたしたち野方町教会は今年創立83周年を迎えましたが、その長い歴史の中で天に召された先輩諸兄姉の召天者名簿を今年も発行いたしました。全部で161名のお名前が記されています。実は本日印刷していましたら、162名のお名前が記されるはずでした。というのはつい先週、当野方町教会で最も初期からの教会員で、非常に大きな働きをなしてくださった田中正大さんが天に召され、葬儀を行ったばかりだったのです。今回の名簿には間に合いませんでしたが、名簿の最後にある狐崎トシさんと同じように、当教会では大変長い信仰生活を送られた方でありました。そしてもう一方、石塚元彦さん、この3名が昨年の召天者記念礼拝以降、新たに天に帰られた方々です。また名簿に記載はなくとも、教会で葬儀を、あるいは牧師によって葬儀をあげた方々がおられますし、事情が許さず教会とは関係なく葬儀を行った方もおられます。そうした様々な方々も、この83年の歴史に何らかの形で連なっておられることを覚えます。
ある人がイエスのところへ走り寄り、こう尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。「永遠の命」とは、ユダヤの人にとって、そして聖書に生きる者にとって、もっとも重要な目的であるといってよいと思います。そこでイエスはモーセの十戒の一部を示されました。すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」というものです。するとこの人は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、間髪を入れずに、といってよいほど即座に答えました。実はこの話は他のマタイ、ルカ福音書にも出てきます。そうした並行記事を合わせて読みますと、若干の違いに気づきます。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」とはマタイ福音書の言葉であり、この人は若者であったとも記しています。教えられたことはもう十分に行ってきました、完全とまではいかなくとも他に欠けているものがあるのでしょうか。そんなところから、自信に満ちた言葉ように聞こえます。自分はこれまで優等生のように、律法で教えられてきたことは「みな」知っているし、守ってきたという自信です。
それに対して、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「彼を見つめ、慈しんで」、このときのイエスはどのような目で見つめられたのでしょうか。青年にありがちな自信満々の鼻を折ってしまおうとされたのでしょうか。そうではありません。イエスは慈しみの目で言われたのでした。自分勝手な解決ではなく、まことの永遠の命へ導こうとされたからです。そこでこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」。これは青年にとって、思いもよらぬ言葉でした。また彼にとってもっとも痛い、弱い一面でした。果たして彼は「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っ」ていきました。イエスに近寄って質問した、あの自信に満ちた様子とはまったく別人のようです。「たくさんの財産を持っていたからである」と聖書は最後に報告しています。
「あなたに欠けているものが一つある」。欠け、しかも多くの欠けではなく、たった一つの欠け、その指摘が彼に大きな影響を与えました。一般に欠けというと、不足している、足りないという意味です。この青年は子供の時から聖書の知識を中心に多くを学んできたことでしょう。あらゆる学問、この世で生きて行くための様々な知恵、知識も積極的に増し加えて、今イエスの前に立ちました。この上、何をすればよいでしょうかとさらにイエスに問うたのです。それに対してイエスはさらに加えるという意味での欠けを語られたのではありませんでした。彼は知識においても、財産においても十分に満たされていたからです。イエスが指摘された欠けとは、この上さらに増やすこと、付け加えることが必要という欠けではなく、反対に減らすこと、捨てること、手放すことにおける欠けだったのです。
取捨選択という言葉があります。何かを選び取るには、同時に何かを捨てるということでもあります。わたしたちは日々あまり意識しなくとも、あるいは悩みながらそうした選択、決断を行っているのではないでしょうか。何かを選ぶとは、同時に何かを断念すること。何かを捨てながら別のものを選び取っているのです。今コロナ禍にあって、不要不急とよく言われるようになりました。確かにこの半年余り、生活の範囲を縮小してみますと、何が不要であり、何が本当に必要なのか、いろいろ考えされられたように思います。それまでは当然と思っていたことが、時間を置いてみると、それほど必要ではなく、緊急を要するものではないというようにです。
この青年にとってただ一つの欠けは、さらに増やすことではなく手放すことでした。自分の恵まれた財産を貧しい人々に施すことだったのです。イエスは「それから、わたしに従いなさい」と青年を招かれました。かつて漁師だったペトロは網と舟を捨てて、イエスに従いました。徴税人のマタイは自分の机と椅子を捨てました。青年にとっては自分の持ち物の使い方が示されたのです。イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました(8.34)。青年はこれまで確かに信仰的に生きてきました。教えられた律法などをよく学び、忠実に守ってきたと思っていました。けれどもどこか本質的には自分中心の生き方から離れられなかったのではないでしょうか。自分の肉に従って生きていたのです。そうではなく、そうした自分を捨ててイエスに従う中で神を愛し、隣人を愛することが彼に必要だったのです。そこにこそ彼が求めていた永遠の命があるのでした。今日こうして召天者記念礼拝を守るにあたり、わたしたち同様、先に天に召された友たちもまた永遠の命についてのこの問いかけを受け、それに従いながら歩んできたことを覚え、心から偲びたいと願うものであります。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。