信仰に基づいて   ローマの信徒への手紙14.14-23   2020.9.27 

わたしが毎日散歩コースとして歩いているところに、外国、特にアジアからの人々が住んでいるアパートが幾つかあります。近年特に多くなっているわけですが、そのような人たちが利用する飲食店や、彼らの子どもたちの給食などを考えると、いろいろ大変だろうと想像します。というのは食べ物に関するタブーがあり、宗教的、また文化的にいろいろ制約があるからです。それは食べ物の好き嫌いといった嗜好の問題ではありません。たとえば牛肉は食べないという宗教があるかと思えば、豚肉、そのスープさえも禁じられているという人々もます。こうしたことは世界的に見ればもっとありますし、歴史的にも昔から存在していました。

今読んでいますローマの信徒への手紙、これは1世紀のローマ帝国時代の教会に宛てられた使徒パウロの手紙ですが、ここにもそうした食べ物についての記事が出ています。ローマ教会には、ユダヤ人からクリスチャンになった人々がいました。彼らは古くから自分たちが守ってきたものをなかなか捨てきれずにいました。たとえばペトロに次のようなエピソードがあります。彼は食べ物に関するある幻を見ました。そこには旧約聖書で汚れていると言われる獣や鳥が出てきて、神がそれを屠って食べなさいという声を聞くのです。それに対してペトロはこう応答します。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(使徒10.14)。これがユダヤ人一般の姿勢でした。そこからさらには、異邦人との付き合いさえ汚れているからとタブー視していくことになりました。

当時のローマ社会は、クリスチャンにとっては異教の世界でした。街の市場で売られている肉などほとんどは、その世界で信じられていた神殿にささげられたものが卸されていたものでした。従ってその肉を買って食べるのは、特にユダヤ人からクリスチャンになった人々には抵抗がありました。長年の宗教的信条から、異邦人の汚れを避けたいという思いがあったからです。だから流通のはっきり分からない市場の肉は買わず、結局野菜中心の食生活となりました。それに対してはるかに多くの教会員は、以前は異邦人と見られていたローマ人たちでした。彼らにはタブーはなく、そうした規定に捕らわれていませんでした。パウロは一方の食べ物にこだわる人を弱い人と言い、そうでない自由な人を強い人と呼んでいました。伝統派と自由派とでも言えましょうか。彼らは教会の中で、互いに相手を裁き合っていたのです。だらしなく野放図だと伝統派が他方を非難すれば、もう一方では自由のない頭が固い連中だと軽蔑していたのです。

そこでのパウロの主張は次のようなものです。「それ自体で汚れたものは何もない」。すべては神の造られたもの、感謝して受けるなら何一つ捨てるものはないとの信仰です(1テモテ44)。ただそれだけで問題が解決するわけではありません。そこでさらにこう述べるのです。もしあなたの自由な振る舞いによって、他の人が心を痛めるならば、あなたは愛に従って歩んでいないと付け加えました。キリストはあなただけのためでなく、その人のためにも十字架で死んでくださったからです。あなたたちはどちらも、キリストによって愛された神の子どもたちなのです。だからあなたの行動が他者を傷つけないよう、思いやりの心で接しなくてならないと言うのです。使徒は別の箇所でこう述べています。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(1コリント8.8-9)。それは今日の箇所で述べている「あなたがたにとって善いことが、そしりの種にならないようにしなさい」と共通しています。

このような何を食べるか食べないかは相対的なことであり、一時的なものに過ぎません。それならばもっと重要なことは何でしょうか。それをパウロがこう語ります。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。これがわたしたち人間にとって最も根本的な立つ場所です。さらに続きます。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます」。この信仰に立っているならば、他人の生活態度を自分と違うからといって批判したり、裁いたりすることはありません。そもそも同じ教会の仲間を侮りながら、他方では神に喜ばれることなどできるものではありません。

大切なことは自分の態度です。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」がそれを言い表しています。そして最後にこう言うのです。「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」。この確信という言葉、ギリシア語ではピスティスと言い、多くは信仰と訳されます。今日の宣教題は、この信仰という言葉の方を用いました。この信仰(確信)に基づく行動こそ、自らを確かなものとするだけでなく、それは同時に他者を配慮する自由をも与えます。それは次のような別の言葉に置き換えることができます。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ、多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました……律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました……弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してはすべてのものになりました……福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(1コリント9.19以降)。この自由な態度こそ、実は自らの確信に基づくところから生み出されるものであり、それが自分とは違う他者と共に歩むことへと導くのではないでしょうか。

新型コロナウイルス感染が拡大し続けてまもなく1年になろうとしています。この長い期間、わたしたちは多くの制約を強いられてきました。特に学生や現役の社会人など若い人々はさらに活動していかなくてはならず、しかも以前と同じような活動ができないだけに、知らず知らずの間に精神的に多くのストレスを抱え、実際の生活のあり方にいっそうの工夫を要するようになりました。そうした中にあっても、わたしたちは自らの信仰に堅く立つことにより、いかなる困難な環境にあっても自由な態度で臨み、対処する道が開かれていきます。重要なことは「あなたは自分の抱いている確信(信仰)を、神の御前で心の内に持っていなさい」との言葉、まさに信仰こそがいかなる状況にあってもわたしたちを根本的に支えるものなのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第18_2020年9月27日