希望の源である神   ローマの信徒への手紙15.1-13   2020.10.4 

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。ローマ書15章はこのような言葉から始まりました。「わたしたち強い者は」とありますから、ここにはもちろん手紙を書いているパウロ自身も含まれています。それ以外にも、同じように強い人々がいたのでしょう。いったいそのような強い者とはどのような人々なのでしょう。またその強さとはどのような強さを言っているのでしょうか。実は今日の冒頭の言葉は、1章前の14章の冒頭の言葉に対応しています。すなわち「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」との言葉です。つまりここでの強いとか弱いというのは、主に食べ物に関して自由に振る舞うか、それとも自らに禁忌(タブー)の規定を課しているかどうかから始まったものです。そこから強い者とは何事にも捕われず自由に振る舞うことのできる人であり、ここにはパウロをはじめ異邦人からキリスト者になった人々に多くいたようです。それに対してこれまでのユダヤの律法や規則を重要視していた人々がいました。それが弱い人であり、ユダヤ人でキリスト者になった人々を言うのでした。

このように立場や主張の違いのある人々が同じ教会にいました。それは現代でも同じです。そこでパウロが語ることは、相手の主張を打ち負かすようなことではなく、むしろ相手の立場に立つということであり、それは特に強い者と言われる人々に求められる姿勢でした。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」。互いに重荷を担い合うのは、教会形成において非常に重要です。特に自らを強いと認識している者は、その自由と強さを自分の満足だけに用いるのではなく、むしろ他者のためにその自由を用いるということが必要ではないでしょうか。

これはわたしたちの主キリストに範を求めることができます。キリストも御自分の満足を求めることはなさらなかったからです。それをフィリピの手紙の中にある素晴らしいキリスト賛歌としてわたしたちは知っています。こうです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2.6以降)。ここに主キリストの自由と強さが見られます。

このキリストを基として、強さと弱さは単に食物のことだけではなく、さらに大きく、深く展開していくことになります。やはりパウロ自身の体験からその一端が分かります。パウロには慢性的な病がありました。病名を本人は明かしていません。そのためこれまでいろいろ想像されてきました。目の病気や癲癇等が、他の記事から推測される代表的な病です。パウロは自らの病を「とげ」と言っています。そしてこう言うのです。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」。「三度」とは一回から数えて三回という意味ではなく、真剣に、しかも何度も何度もという完全数字です。しかしここからが違ってきます。パウロは次のような言葉を主から聞くのでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そこでパウロはこう結論づけました。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12章)。強さとは、また弱さとは何か。ここに至ってその強さと弱さの意味がキリストにあって逆転していくことになるのでした。

弱い者と強い者、それは別の意味ではユダヤ人と異邦人いうことでもあります。それをさらに旧約聖書をとおし、どちらの民も神の約束と憐れみの中に導かれてきたことを語ります。まず何よりも旧約時代の約束の民ユダヤ人に対して、言い換えれば「割礼ある者たち」は当然のことでしょう。それをキリスト中心に述べます。「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです」と語るとおりです。旧約の約束の実現がキリストにあってなされるためでした。けれども旧約聖書には異邦人への約束もまた、さまざまな箇所で語られていたのでした。それが9節から12節までに記されており、旧約の預言者たちはユダヤ人の救いだけでなく、異邦人に向けられた光をも示していたのです。たとえばクリスマスによく読まれる代表的な聖書としてのイザヤ書では、「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」(12節)。エッサイとはダビデの父であり、そのダビデから新しい芽としての救い主イエス・キリストが現れるとの預言です。このようにキリストはどちらの民をも受け入れてくださったのだから、あなたがたも互いに受け入れ合いなさいというのです。まさにそれは次のような言葉でまとめられているといってよいと思います。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラテヤ3.28-29)。

今わたしたちの社会ではさまざまな生き方、人間のあり方を認め合っていこう、すなわちダイバーシティ(多様性)という言葉が標語、理念のように語られています。それは崇高な呼びかけであり、その理想に向かって進むべきですが、同時に実現は決して容易ではありません。なぜならその基礎になるものがないからです。聖書が語るキリストによる救済とその信仰が不在だからです。キリストはすべての人々を受け入れてくださいました。その究極が罪の赦しである十字架です。だからわたしたちも受け入れられた者として、互いに相手を受け入れ、重荷を担い合っていくのです。ダイバーシティはこうしたところから築かれていくのではないでしょうか。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。こうした祈りと賛美の中で新たな歩みを始めていきましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第19_2020年10月4日配信