神が造られたこの世界 箴言8.22-31 2020.10.25
先週までの2週間は教会の行事、すなわち神学校日と信徒伝道礼拝を中心として歩んできました。そのためローマ書からは一時離れました。また今日から教会暦としては、新たに降誕前節に入りました。これからは旧約聖書をとおして、神の創造、そこからの人間の堕落(罪)、それにもかかわらず神の選びがあり、救いの約束が与えられていく様子を辿っていきます。そのようにしてアドベントを迎え、キリストの来臨の希望を抱きながらクリスマスへとつなげていきます。今日はその最初、神の創造についての箇所となりますから、ローマ書からはもうしばらく離れ、年が明けてから再び読むことになります。
神の天地創造はもちろん創世記の1章、2章が語っているわけですが、しかしそこだけにしか書かれていないというわけではありません。今、司式者に読んでいただきました箴言8章22節以降もまた、創造について語っています。そこに入る前に、わたしたちはあまり読むことがありませんので、まずこの箴言の性格、目的、その趣旨について触れておきたいと思います。それは1章の冒頭に序文として的確に記されています。「これは知識と諭しをわきまえ 分別ある言葉を理解するため 諭しを受け入れて 正義と裁きと公平に目覚めるため。未熟な者に熟慮を教え 若者に知識と慎重さを与えるため。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え 聡明な人も指導力を増すであろう。また、格言、寓話 賢人らの言葉と謎を理解するために」。そして次にこの書物の主旨である言葉、「主を畏れることは知識の初め」が続きます。これが箴言全体の枠組みとなります。
そこで今日の言葉。ここには神の創造が語られています。ただここで中心になっているのは、「わたし」です。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」。いったこの「わたし」とは誰のことでしょう。このような「わたし」は、創世記の1、2章には出てきません。その答えは12節にあります。「わたしは知恵」。そうなのです、わたしとは知恵のことであり、すなわちこの箴言の中心となるもの、それを擬人化して「わたし」と言っているのです。この「わたし」である知恵は、天地創造のとき、いや、その前に存在していました。「わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(24節)。「深淵」という言葉は創世記1.2にも出てきます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。その深淵さえまだ存在しないとき、それに先立って知恵であるわたしは生み出されていたというのです。生み出されていたというだけでなく、「わたしはそこにいた」とまで言っています(27節)。このような言葉を聞きますと、創世記だけでなく、合わせてヨハネ福音書の1章をも思い浮かべるのではないでしょうか。「言は神と共にあった」という言葉です。もちろんこの「言」は同時に神であり、初めに神と共にあったのに対し、わたしである知恵はすべてに先立って存在してはいましたが、あくまで神によって造られたものであることに大きな違いはあります。
創世記1章の創造における最後に人間が創造されました。それらすべてを御覧になった神は満足し、最後に「それは極めて良かった」との言葉で結んでいます。すべてに調和がとれた平和(シャローム)の状態です。そのような平和の状態を今日の箴言では、別の表現で記しています。それが30節、31節の言葉です。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ」。ここには神と人との間に立つ「わたし」、すなわち知恵の働きが平和において重要な役割を担っていることを示しています。
いったいこの知恵をわたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。箴言にはこの知恵と同じように、英知、分別、知識というような言葉が用いられています。今わが国では日本学術会議の任命が問題となっています。ある意味では日本の知性の粋を集めた場所だといってよいでしょう。しかし箴言はそれを、またそれだけを知性とは言いません。「自分の分別に頼るな」、また「自分自身を知恵ある者と見るな」とあるように、その自分から距離をおくこと、遠ざかることの大切さを語るからです。そして心を尽くして主に信頼し、主を畏れることから始まるまことの知恵を語るのです(3.5以降)。
この知恵をヘブライ語ではホクマーと言います。それが新約のギリシア語ではソフィアとなります。その新約でも知恵が語られています。次の言葉が代表的なものです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です……『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1コリント1.18以降)。ならばその知恵とは何か。また誰か。この箇所ではこうまとめています。わたしたち「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。つまりキリスト・イエスこそ神の知恵なのです。
わたしたちの生活にはいろいろ迷いがあります。不安のなかにあります。自分の健康のこと、また家族の健康、病気のこと。そしてこれから先のこと。現在はコロナ禍にあって経済活動がうまく回らず、そのなかにあって仕事や経済的な苦境もあります。このようなことは事の大小を問わず、どの時代にも、どのような人生にもついて回ります。けれども同じようにわたしたちと共にいてくださる方、すなわち同伴者としての知恵であるキリストがおられることを忘れてはなりません。「それはあなたの歩みを導き あなたが横たわるとき見守り 目覚めればあなたに話しかける」(6.22)と語るようにです。天地が造られる前に、それに先立って「わたしはそこにいた」方に自らを委ねながら、今日から始まる新しい新たな歩みを一歩一歩進んでいきたいと願います。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。