私のほかに神はいない   イザヤ書44.6-17    2020.11.1 

昨日はハロウィーンでした。今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響をずいぶん受けたことと思いますが、それでも渋谷などで見られるこのお祭り騒ぎは年々派手さを増しています。わたしがアメリカにいた今から40年以上前の慎ましさからは考えられないことです。その同じ昨日の1031日は宗教改革記念日でもありました。ハロウィーンの陰に隠れてしまってはいますが。15171031日、マルティン・ルターがB4くらいの紙1枚に「95箇条の提題」と呼ばれる文書をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示した日であり、それが宗教改革の始まりとなりました。今年で503年ということになります。改革者たちは「聖書のみ、キリストのみ、信仰のみ」の立場から、それまでローマ教会では当然と思われていた伝統的なものを排除しました。彼らはいわゆる宗教的なものと、信仰そのものとは違うということを主張していったのです。

この朝のイザヤ書には、まことの神と人間が造った偶像なる神が比較して書かれています。これは当時のバビロンなど周辺の国々の宗教批判ではありますが、宗教改革者たちの批判でもあり、さらには現代批判にも通じます。6節から8節には創造主なるまことの唯一の神が語られています。「イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」。創造主なる神は、われわれ人間をはじめ、天地万物をお造りになったのであって、決して人間によって作られる神ではありません。それに基づいて9節から17節には偶像なる神が、それも嘲笑的に述べられています。たとえばこんな言葉、「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが 飢えれば力も減り、水も飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き のみで削り、コンパスで図を描き 人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り 神殿に置く」。1節飛んで15節以降、「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり 食べ飽きて身が温まると 『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください。あなたはわたしの神』と」。ここには愚かな人間の精神が、皮肉を込めて語られています。

以上のことはモーセの十戒の最初の二つの戒めに関するものです。第一戒は、あなたはわたしの他に神があってはならない。神はただおひとりということです。それと深く関係しているものが第二戒です。他に神があってはならない、像を造って拝んではならないというものです。それでも人間は目に見えるもの、地上的なものに頼ろうとするものです。それが人間の弱さです。信仰によって歩く、目には見えずとも御言葉によって歩くということがいかに難しいかという面でもあります。旧約にこんな話が出てきます。イスラエルの指導者モーセがシナイ山からなかなか降りてこないので、民は不安に陥りました。それまで自分たちの前にいたモーセが見えなくなったからです。そこで彼らはモーセの代わりに金の子牛を作り、「これこそわれわれの神々だ」と崇め礼拝をしました。ここに人間の弱さ、わがまま、神への背信が見られます。御言葉を信じて歩むことの大切さと、その難しさがよく出ている箇所です。

偶像批判は他の宗教の批判というだけではありません。特に現代のような世俗的な社会、あるいは無宗教社会にあっても、そこにも宗教があり、精神化された偶像礼拝があるからです。偶像のことを英語ではアイドルと言います。アイドルにはもう一つの意味があり、タレントなどあこがれの人もアイドルです。こちらの方が多くの人に知られているのではないでしょうか。つまり偶像も、あこがれの人もアイドルなのです。最近、タレントの自死とか薬物に手を染めたりするような犯罪がしばしば見られます。一見華やかな世界ではありますが、そこには深い闇が覆っていることを思わされます。タレントに対しては宗教的な意味での礼拝行為をしているわけではありませんが、どこかで熱狂的な崇拝があり、特に若い人々にさまざまな影響を及ぼしていくものです。

現代の偶像、また偶像礼拝の一端をこうしたところに見るわけですが、さらに深めていきますと、偶像なる神は人間の外にあるのではなく、むしろわたしたち自身の中に原因があることが分かります。新約コロサイ書では「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と指摘しています(3.5)。またフィリピ書では自分の「腹を神とする」と語られています。つまり自分の腹(欲望・貪欲)に仕えるという意味で、これもまた偶像礼拝なのです。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と語られているとおりです(3.19)。このように今日の偶像礼拝とは、目に見える形を取るというだけでなく、人間の内に、欲望という目に見えない形で、あるいは精神化されたものとして存在し、それに知らず知らずにひれ伏しているのです。イザヤが批判している形としての偶像(それがたとえいかに美しく神々しくても)、あるいは目には見えないわたしたち自身を支配する欲や精神化された魅力的なものであっても、そのどちらも結局は人間が中心となり、人間の欲が主体となって作り出されたものなのです。ということは結局は人間は自分を拝んでいるということになるのではないでしょうか。わたしたちはそうした肉なる自分ではなく、神にのみ、すなわち御言葉に聞き従うということが重要なのであり、それがすべてなのです。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら 声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ」。この贖い主であり、救いの岩である神を差し置いて、他のものによりどころを、また堅固な場所をわたしたちは求めてはなりません。そこは空虚さ、無力さの何ものでもないからです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕前第8_2020年11月1日配信