実現する主の言葉   申命記18.15-22     2020.11.18  

この朝の聖書で語られるモーセ、その人物について申命記は最後の34章で次のように結んでいます。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」。もう少し詳しく読んでみますと、「主が顔と顔を合せて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」。これが申命記におけるモーセの総括です。

出エジプト記やこの申命記などを読みますと、そこに出てくるモーセは、仲保者であると言ってよいと思います。神とイスラエルの民の間に立つ人であり、言い換えれば執り成しの人ということも可能です。長い、しかも困難な荒れ野の旅は、いつも順風満帆ではありませんでした。むしろ逆風にさらされ続ける旅であったと言った方が正確かもしれません。荒れ野を旅するイスラエルの民は順調にその旅路が守られている時には、意気揚揚と足取りも軽やかでした。けれども彼らの歩みが困難に陥った時、たとえばエジプト軍が自分たちのすぐそばまで追いついて来たことを目の当たりにした時、あるいは荒れ野で食べ物や飲み物が欠乏した時、彼らの意気揚々とした姿は一挙に消え去り、今度は不安と恐れの中とげとげしくなっていくのでした。このあたりを読んでいますと、いつの時代の人々にもあてはまる人間の姿であり、当然今日のわたしたちをも映し出す鏡のようでもあります。イスラエルの民を襲ったその恐れや不満は怒りとなって、それがモーセに向かうのでした。彼らの生活がうまく行っている時は、モーセは感謝され、また預言者として崇められもしました。しかし反対に困難に直面した時には、たちまち不平の対象となり、敵意され抱かれるありさまだったのです。そのように民に信用されるかと思えば、その民に裏切られるという繰り返しです。それでもモーセは、そのような民のために執り成しの祈りを神に献げ、彼らの罪の赦しを祈るのでした。もし彼らの罪の赦しがかなわなければ、自分の命を消し去ってくださいとまで言っています(出エジプト32.32)。それゆえに仲保者、また執り成しの人であったのです。

モーセの役割は神の言葉、すなわち神の意思を人々に伝えることにありました。他方では人間はどろどろとした肉なる世界に生きています。ここには大きな天地の開きがあります。預言者は自分の言葉や思いを語るのではなく、神から授けられた言葉を人々に伝えます。その言葉は当然、聞く人々の生き方にも変更を迫るもので、あるときには悔い改めや回心の呼びかけを含んだものとなります。そのように預言者の言葉は、人々がどのように生きていくべきかという倫理的な勧告ともなっていきます。けれどもこのように預言者が語る言葉を、人々が必ずしも素直に受け入れるわけではありませんでした。むしろ反発する者の方が多いくらいでした。すると預言者は人々の嘲笑の的となり、また迫害されることにもなります。そのように神の言葉を伝える使命と、それを聞かない人々との板挟みとなったのです。預言者が多かれ少なかれ苦難の人となったのはそれゆえでした。たとえば使徒パウロは、そのような板挟みの状態をこのように述べています。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」(ガラテヤ1.10)。

モーセとはこのような働きをなした人物でした。だから「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」と結論づけているのです。そのようなモーセが、今自らの口をとおして、また主の口をとおして告げました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」(15節)。また「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける」(18節)。二度と現れるはずのない預言者が、再び終わりの時に神から遣わされるというものです。

この約束の言葉はイスラエルの救いの歴史において、大きな影響を与えました。また希望の言葉でもありました。やがて「モーセのような預言者」が再び現れるとの希望です。イエスがフィリポ・カイサリア地方に弟子たちと共におられた時のことでした。イエスは弟子たちに人々がご自身のことを何者だと噂しているかをお尋ねになりました。そこで弟子たちは答えます。「洗礼者ヨハネだ」という人々がいます。また「エリヤだ」という人もいます。その遣り取りの中で、「預言者の一人だ」との言葉が出てきます。そうした評判もあったのです。このように終わりの時には、こうした偉大な人物が現れるという期待があったのでした。この「預言者の一人」こそ、モーセの再来として、世の終わりに現れると信じられていた人物でした。後のペンテコステの出来事の後、ペトロはイエス・キリストこそモーセが「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」と言った、まさにその人だと証言しています。それはステファノも同様でした(使徒3章と7章)。「あの預言者」とはまさにイエスを指し示す称号であり、メシアを意味していたのです。

その神の独り子であるイエスは、肉となりわたしたちの間に宿られました。わたしたちと同じように貧しき姿を取り、わたしたちのために、わたしたちと共に地上を歩まれました。そこで主イエスが語られた言葉、なされた業は、すべてにおいて実現していきます。病に苦しむ人には癒しを、生活の困難に直面している者には必要な物を用意されました。そのようにして目指すべき神の国を指し示し、そこに人々を招かれたのです。わたしたちのこの世界にもこれまで多くの言葉が語られ、多くの行動がなされてきました。今もそうです。けれどもその多くは空虚な言葉から成り、語ったことが実現するには程遠い世界でもあります。自らの生活からもわたしはつくづくとそう思わされます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とはクリスマス前のエリザベツの言葉でもあります(ルカ1.46)。2週間後にはいよいよアドベントを迎えます。そのように言が肉となり、その言葉をすべて実現させることのできたお方に身を寄せることの幸いを覚えつつ、静かにまた力強くこの預言者の到来を待ち望んでいくのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕前第6_2020年11月15日配信