復興の約束    ミカ書2.12-13       2020.11.22 

先程読んでいただいた聖書の冒頭にある小見出しには、「復興の預言」と書かれています。わたしも今日の聖書箇所ではほぼ同じ考えで、宣教題を「復興の約束」としました。復興という言葉は今日でもよく使われています。しかも重要な内容を含んでいます。そこにはまもなく10年を迎えようとしている東日本大震災からの復興があります。あるいは毎年のように起きる地震や台風や豪雨などによる災害、そこからの復興もあります。さらには今まさに直面している新型コロナウイルスによる打撃から、どのように立ち直っていくかが課題となっています。被災した人々はそこから物理的にも精神的にも再び立て直す(復興)のが非常に大変で、そのあたりは今もテレビなどで報道されていることからもよく分かります。

紀元前8世紀の終わり、その頃のイスラエルは南北に分裂していました。北はイスラエル、南はユダと呼ばれていました。当時アッシリア帝国が強大な国家として、チグリス・ユーフラテス川流域の広大なメソポタミア地方を支配していました。この肥沃な地域では古代から新しい国が興っては次の国によって滅びるという繰返しをしていました。その国が今南下してパレスチナ地方に圧力を加えてきたのです。そうしたなか、北のイスラエルがついにアッシリアの侵攻によって滅びます。紀元前722年から721年のことでした。当然次は南王国ユダに危機が訪れます。このような時代にあって預言活動をしたのがミカでした。

「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に 群れのように、牧場に導いてひとつにする」と主なる神が言われました(12節)。預言者ミカが指摘していることですが、イスラエルの民は恐れから動揺し、信仰の不信に陥り、皆バラバラに散り乱れていました。それはいつの時代でも同じです。この世界はある意味では散らされた民の世界です。それぞれがバラバラで思い思いに行動し、罪と自分中心の高慢さから自分勝手な道を歩んでいる世界です。まさに迷える者の世界であり、その中に孤独があり、敵意があり、いらだちや不和が生まれます。それが神に背を向けて生きる人間の孤独な姿です。そうした迷える人々を主なる神ご自身が再び集め、呼び寄せられる。あたかも羊を安全な囲いの中に、ひとつの群れのように牧場に導かれるようにです。

この復興の約束は、預言者エゼキエルも同じように非常に慰めと力ある言葉で次のように述べています。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」(34.11-12)。さらにメシアの預言的な意味を込めて続けます。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」(同23-24)。

ユダヤの国は外国の侵攻を受けて荒れていました。また彼らの信仰・精神もすさんでいきました。そうしたなかで預言者ミカは彼らに復興の希望を語るのでした。しかもその復興とは、地上的・物理的な回復を示しつつ、さらにはそれを超えた究極の救いの希望のことでした。13節の言葉がそれを裏づけます。「打ち破る者が、彼らの先頭に先立って上ると 他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」。この打ち破られた門、その門を通って外に出るという描写こそ、さまざまな捕らわれから解放されて、復興に向かっての自由な歩みが始まった様子を示しています。しかもその新たな旅路の先頭に立たれるのは主なる神ご自身であり、その神の王となってわたしたちに先立って進まれるというものです。これはイザヤやの言葉にも共通するものです。「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(52.12)。わたしたちの現在もこれと同じです。わたしたちも主が示してくださった約束の旅を続けているのであり、その信仰の旅路の先頭を導いてくださるのも、一番最後で守ってくださるのも主なのです。

このような言葉を聞きますと、おのずと新約聖書におけるイエスの言葉を思い出さずにはいられません。それはイエスご自身が良い羊飼いと言われた、あの箇所です。主はこのように言われました。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10.3-4)。これはまさに預言者ミカが語った、「門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」との言葉が指し示したものではないでしょうか。主なる神が、王として、また羊飼いとして、散らされた羊のようなわたしたち人間を集め、導いてくださる。その方こそイエス・キリストに他なりません。

降誕前節からいよいよ次週は待降節(アドベント)に入っていきます。旧約の民はさまざまな試練に直面し、人間の弱さや不安定さをさらけ出していきました。それにもかかわらず彼らは神の豊かな導きと信仰の希望を与えられながら歩んできました。その中にあって預言者は究極の救い主を待ち望む希望を指し示していきました。とてつもなく長い精神史、信仰の歴史、その遍歴をとおして与えられていった希望です。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。これはイザヤが語った救い主の描写です(40.11)。この主イエス・キリストが散らされた人々を、そしてわたしたちをこのようにして集め、救いへと導いてくださっていくのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕前第5_2020年11月22日配信