主の山に登ろう   イザヤ書2.1-5      2020.11.29   

今日から待降節(アドベント)に入りました。これからローソクに光を1本ずつ灯しながら、クリスマスを迎える準備をいたします。アドベントとはラテン語から来た言葉で、「到来」という意味です。もちろんそれはキリストの誕生という到来、クリスマスのことです。いきなりクリスマスを迎えるのではなく、これから4週間にわたって心の準備をしながらその到来を待つのです。アドベントという到来には、さらにもう一つの意味があります。それはキリストの誕生を突き抜けて、もっと先にある再臨、それは「使徒信条」で言う「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白する、あの到来です。わたしたちはこの二つの到来を、もちろん別々のものであることを知りつつ、しかしまたほとんど同時に起きている、この二つが重なっているものとしても受け止めていくのです。それが終末に生きる信仰者の姿と言えます。

イザヤがこの朝わたしたちに語っている幻、そこでの「終わりの日」とはまさにこのような二つの到来を示しています。次のように初めています。「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる」。これはイザヤの時代にあった地上のエルサレムの神殿を超えた終末の神殿であり、そこに高くそびえる山もまたシオンの山というように天から示されたものです。山の上に立つ神殿はどの峰よりも高く、しかも堅く立っているとイザヤは告げるのでした。その山をめざして、その主の家をめざして、イスラエルの民だけでなく、世界中の国々が大河のようにそこに向かいます。今年は新型コロナウイルス感染の影響により、何から何まで異例ずくめの日々が続いています。しかも世界規模、まさにパンデミックの災害に直面しています。そこではどのような知恵も呑み込まれてしまい、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」(詩編46.7)ような状態が今も続いています。そのような時にこそ、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と神は語ります(同10節・口語)。イザヤが「国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とは、人々が地上の限界、人間の限界を経験しながら、それらを通して神に立ち帰る様子を指し示しているのです。

そこで多くの民が言いました。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。今日の箇所には、同じ内容が言葉を変えて2行ずつ並べる聖書の特徴ある文体がよく出ています。ここでの道もそうです。ヘブライ語は別の言葉が用いられていて、後の方の道はもう少し小さな小道のようなニュアンスです。聖書によっては従って別々の言葉を用いているものもあります。ただここでもっと大切なことは、その道とはどのような道なのかということです。それは「彼の(主の)道」です。この世界にはいろいろな道があります。自分独自で作る道、社会で評価されている道、理想する道などです。けれども今ここで言われていることは、人間が築く道とか地上的な道ではなく、主が与えられる道のことなのです。

この主のもとに人々が集まり、そこで示された主の道を歩むことによって、平和が実現するとイザヤは語りました。すなわち「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。非常に有名な言葉です。わたしたちの世界には王が君臨する国があります。王がいない共和制であっても、政治をつかさどる為政者を代表として立てています。政治を任された人々は、さまざまな法律を制定し、さまざまな条約を結ぶことによって争いを回避し、平和をつくろうと努力しています。ところがどうでしょう。そのような絶えざる努力にもかかわらず、剣が鋤に、また槍が農機具に変えられるような平和はなかなかおとずれることがありませんし、むしろそのような平和から遠のいてさえいます。これがわたしたちの地上の現実の姿であり、その限界でもあります。

イザヤが語る今日の箇所のちょうど真ん中あたり、3節の終わり2行にこうあります。「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」。「教え」とはヘブライ語でトーラー、すなわち「律法」と一般に訳される言葉です。主の教えがシオンから、主の御言葉はエルサレムから出る。神の神殿、その高い山に登り、そこで示された道こそ、主の御言葉に基づくものなのです。この言葉を耳にしますと、ヨハネ福音書の次のような言葉を思い浮かべます。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1.17)。

イザヤが語ったこの平和のメッセージは、キリストの誕生によってもたらされるものでした。そこで最後にこう述べています。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。この励まし、呼びかけの言葉は、言うまでもなくてイエス・キリストを指し示したものと受け取ってよいと思います。主ご自身が言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8.12)。このまことの光であるイエスが、すべての人々を照らしているのです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。この呼びかけを、キリストの誕生と共に聞き、キリストの光として聞くことができるのです。この言葉はさらにわたしたちをも力づけていきます。エフェソの手紙で次のように語ります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。だからこう続けます。「光の子として歩みなさい」(5.8)

以前は暗闇であった。確かに今日もさまざまな暗闇があります。なかなか先が見通せず、光が見えず、それゆえ不安や悩みといった闇に覆われているのがわたしたちの現実の生活です。それにもかかわらず「わたしは世の光である」と言われたキリストがやがて来られ、その主を指し示しつつ、イザヤが「主の光の中を歩もう」と呼びかけているのです。主の教え、御言葉に聞き従いながら、これからクリスマスに向って一歩一歩共に歩んでいきたいと思います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

待降節第1(アドベント)_2020年11月29日配信