恐れることはない  マタイによる福音書14章22-33節   2021.1.31

主イエス・キリストは、どんな時にも私達に「恐れることはない」と
語りかけてくださいます。信仰とは、自分の思いや力を捨て、全てを父なる
神様に委ねることです。委ねられない時にこそ、不安や恐れを抱くのです。
私達の心を乱すものは常にあります。今私達は新型コロナウィルスに
脅かされています。見えないからこそ、一層不安を覚えます。信仰があるから
コロナは大丈夫ということは全くありません。しかし信仰があるからこそ、
神様に委ねるからこそ、どんな状況に置かれても、心に平安を与えられ、
心乱されることはなくなります。必要になった時だけに神様を信じるとか、
条件付きで信じるとか、一部だけ信じるということではなく、どんなときにも
信じ委ねるのです。とは言っても、どこかで疑う、委ね切れない気持ちがある
のではないでしょうか。いざとなったら右往左往してしまう。諦めたり、もう
無理だと思ってしまう。
 この父なる神を信じる姿を私たちに示して下さっているのが、イエス・
キリストです。その姿の一つはイエスが十字架で絶命する場面です。全地が
暗くなる中で、「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」と
叫びます。見捨てたのかと叫んではいますが、死の直前まで、他の誰でもない
父なる神に向かって叫んでいるのです。ゲッセマネの祈りにおいて「御心の
ままに」と言ったように、死を前にしても、神に全てを委ねる姿は変わら
なかったのです。委ねたその先にイエスの復活があります。父なる神によって
死から起こされるのです。死に打ち勝つのです。私達も罪による死が
赦されて、死の恐れから解放される。復活の希望が与えられるのです。
もはや死ですら我々の心を支配しません。
 コロナ以外にも、私達の心を惑わすもの不安を与えるものはあります。
仕事のこと、健康のこと、老いること、経済的なこと、家族のこと、人間
関係のこと。それらは無くなることはありません。しかし小さくされる。
神様は必要なものを絶えず与えてくださいます。私達を救い、導いてください
ます。そのためにイエス・キリストのからだである教会、そこに結ばれる
兄弟姉妹がいます。神様につながることで、神様に仕えることで、全能の
神様の力に与るのです。時に信仰そのもの、神様の存在すら疑わしく
思えることがあるかもしれません。しかし今ここにいる、この言葉を聞いて
いるということは、少なくともこれまでの多くの困難、試練、苦しみや
悲しみを乗り越えさせていただいたということではないでしょうか。
どれだけの人に支えられ、どれだけのものを与えられてきたか。大事な事は、
神様が与えてくださるものを、どう頂くか、受けるかということです。
こんなものと、またもっと他のものをと思ってはいないでしょうか。
これから与えられるのではなく、すでに与えられているのです。
目の前にあるのです。信仰も与えられるものです。自分の力、努力で信じるの
ではない。受けるとは、低くされるということ。神様の、また隣人の言葉を、
また恵みを、重みをもって受けるとき、その重みで低くされ、そこに神の
恵み、力が注がれるのです。恐れることはないと言ってくださり、支え導いて
くださるこの主イエス・キリストと共に、
希望をもって力強く歩んで参りましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第6_2021年1月31日配信