多くの友に囲まれて   ローマの信徒への手紙16.1-16   2021.2.7

ローマの信徒への手紙は最後の16章となり、残り2回となりました。これまでしばしばお話ししてきましたように、これは手紙という呼び方をされていますが、今日わたしたちが理解する手紙とはずいぶん異なっています。それでもここ16章の結びに入りますと、やはり手紙だと納得できるような、今のわたしたちと同じような閉じ方をしていることが分かります。最後に誰々さんによろしくお伝えください、といったような内容です。

確かに現代の手紙の結びに似ているとは思いますが、これだけの人物が出てくることには驚かされます。名前を数えてみました。全部で26人の名前が出てきます。ローマの教会員は少なくとも26人はいたということでしょう。それだけではありません。たとえば10節、11節に「アリストブロ家の人々、ナルキソ家の中で主を信じている人々」という言葉が出てきます。そうした人々の名前は書かれていませんし、人数も示されていません。それらの人々を加えると、もっと多くの人々ということになります。いったい使徒パウロはまだ行ったこともないローマで、なぜこれだけ多くの人々を知っていたのでしょうか。すべての兄弟姉妹の顔を知っていたわけではないかもしれません。しかし間接直接問わず、それだけの信仰の交わりがいろいろな形でなされていたのです。しかも名前だけでなく、働きをも知っていました。パウロは単に誰々さんによろしくと、名前を羅列しているだけでなく、どんな小さな言葉であっても、その人を特徴づける言葉を付け加えていることに気づきます。たとえば6節「あなたがたのために非常に苦労したマリア」、7節「わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアス」といったようにです。そのようにして主にある友の働きに敬意を表し、一人ひとりの交わりがこのようにかけがえのない一人として尊重されたところで成り立つものだと教えられます。そこでは他の誰でもない、この一人の人間に固有の特色によってその人が覚えられ、その人の名前が呼ばれ尊ばれるのです。今日のわたしたちにとっては何でもないように見えるかもしれない長い名前のリストを辿るとき、こうした血の通った愛の連帯が脈打っていることに気づかされるのです

ここに出てくる名前から分かることは、様々な民族の出身者がいるということです。パウロ同様のユダヤ人もいれば、ローマ人(ラテン人)、ギリシア人、さらには小アジア人もいます。また当たり前ですが男も女の教会員の名前も出てきます。さらには当時で言う身分的な違いの人々も出てきます。すなわち明らかに奴隷だと分かる名前の人がいますし、自由人もいます。少数ではありますが資産家もいれば、圧倒的に多くの貧しい人々もいました。ローマの教会には、そのようにさまざまな人々がいたのです。人種、言葉、考え方、社会的な立場、経済的な違いなどなどです。それでも主にあって一人ひとりはかけがえのない存在として尊重され、キリストの体として用いられることに何らの区別はありませんでした。ここに出てくる人々は、後のローマ教会を担っていくような歴史に残る人々ではありませんでした。いわゆる世間で立派な、尊敬されるような地位の高い、有名な人ではありません。そうした人々はいなくても、教会とはこのような人々の信仰によって成り立っているのです。そこには今日と何ら変わることのない仕事があり勉強があり、笑いがあり悲しみがあったことでしょう。老いの不安や寂しさも同様です。

このような多くの人物から、3名について述べます。一人の女性と一組の夫婦です。一人は最初に出てくるフェベという女性です。彼女についてパウロは6行も使って敬意を表しています。彼女はこの手紙を書いているコリントの隣町ケンクレアイの教会の信徒で、「奉仕者」とあります。「執事」とも訳せます。主に病気の人々や貧しい人々の世話などの奉仕をしていました。彼女が今船に乗って、このローマ書を届けているのです。このような主にある姉妹、ローマ書の届け手を丁寧に受け入れてほしいと言っているのです。「どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です」。

残る二人はプリスカとアキラというユダヤ人夫婦です。最初のプリスカ、こちらが女性で、アキラが男性です。わが国にもアキラという名前は多く見られますし、この教会にもいますが、そのアキラです。ということは奥さんが先に名前を挙げられているのです。この夫婦はコリント書にも使徒言行録にも出てくる人々で、パウロの働きに親身になって協力した人たちでした。彼らの紹介にも6行使われているだけに、パウロにとっては特に重要だったのでしょう。特にこの夫婦に関する記述で特徴的なのは、「家の教会」についてです。5節に「彼らの家に集まる教会の人々」とあります。初代の開拓の教会は、こうした家の教会が中心となって展開していくのはよく知られています。そのためにはこうした比較的経済的に恵まれた信者の家が開放されていました。当然そのためには、自らの家庭を開放する献身的な働きがあったことを忘れてはなりません。

教会は実に多くの人々から構成されており、しかも誰一人として同じ働きをしてはいません。私たちは何ができるか、何ができないかといった能力ではなく、それ以上に一人ひとりは主にあってかけがえのない存在として生かされ、また用いられるのです。単なる人の集まりではありません。それがキリストの体としての教会です。ここに出てくる多くの名前の前に、「キリスト・イエスに結ばれて」とか「主に結ばれて」という言葉が幾度となく出てきます。これこそが教会の核となり、基となるものであり、そこにおいてわたしたちのさまざまな違いが、一つに結び合わされ、しかも豊かに生かされていく共同体となるのです。それをパウロは別の箇所で次のようにまとめています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこにではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3.27-28)。わたしたちはこの交わりへと、主キリストにあって招かれているのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第7_2021年2月7日配信