天の国の鍵   マタイによる福音書16.13-28     2021.3.7 

マタイによる福音書では今日の箇所がちょうど真ん中あたりとなり、内容においても後半に差し掛かるところとなります。それまでイエスは神の国の福音の説教をなし、癒しや驚くべき神の御業を中心に行ってきたのですが、ここにきて自らの苦難と死を語るようになりました。その初めが今日の16章です。場所はフィリポ・カイサリアというかなり北の地方に行かれたときのことでした。

イエスは弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。ご自身について世間ではどう考えているかを尋ねられたのです。弟子たちはそれぞれ耳にしたことを告げました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、それ以外にも「預言者の一人」(モーセのような)とのうわさについてです。こうした預言者は終末のときに再び現れると信じられており、それが今イエスその人において実現しているのではないかと思ったのでした。次にイエスは弟子たち自身に向かって尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。人がどう言っているかではなく、あなたがたはどう思っているか、信じているかです。そこで弟子の第一人者であるペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはペトロの信仰告白であり、今日のわたしたちの信仰でもあります。メシア、すなわち油注がれた救い主キリストということです。イエスはこの告白を受け入れ、言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天に父なのだ」。イエスを信じる信仰、信仰の告白は神の一方的な啓示によるものであって、人間が選んだり、判断したりするものではありません。神から与えられたものなのです。そこで重要なことを言われました。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。

教会、その意味は「呼び出された者たちの集い」です。ならば誰が呼び出すのか。それは神です。わたしたちは今日もこうして教会に集っています。それは一見、人間の計画、思い、熱意、そういう意味では人間の業ではありまが、根本的なところではわたしたちの思いを超えて神の呼び出しがあるからこそ、教会の集いがあり、信仰が成り立っているのです。この教会という言葉は4福音書全体を見てもマタイにおいてだけ、ここと次の18.172回して出てきません。なかでも今日の箇所でイエスが語られた教会は、非常に重要な意味を持っています。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエスは「わたしの教会」と言われました。ペトロを代表としてなした信仰告白、イエスはその信仰告白がなされるところに、ご自身の教会を建てられるのです。だからこそ陰府の力、死という滅びの力でさえも、教会に打ち勝つことができません。そして鍵を授けられました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。閉じたり開いたりする天の国の鍵が教会に託されているのです。キリストの招き、主が支配しておられるのです。

このときからイエスはご自分の苦難と死について、弟子たちに打ち明け始められました。それは長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活するということです。するとペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白したペトロ、そのメシアとはペトロにとってどのような方だったのでしょうか。それは旧約以来待望されてきたダビデのように、栄光ある王国を築き上げることのできる人だったのではないでしょうか。それは他の箇所からも分かります。弟子たちはイエスが栄光の座につかれるとき、イエスの右に、また左に座らせてほしいと願っていました。それは長老、祭司長、律法学者にかしずかれることではあって、決して彼らから苦しみを受けることではありません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。ペトロはイエスを心配しているのでしょうか。それとも自分のためにも、そんなことがあってはなりませんという意味でしょうか。イエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。ペトロをサタン呼ばわりしました。なぜなら「神のことを思わず、人間のことを思っている」からです。

それからイエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。ここには二つの命が語られています。それは捨てるべき命と、もう一つは捨てることによって得られるまことの命です。そこでは人間が大きく二つに分かれます。神のことを思う人と、人間のことを思う人です。人間は生まれたままの状態では罪の中にあり、そのもとで考え、行動していきます。人間のことを思う人です。そのような自分からできるだけ離れる、そうした自分から逃れる、それが自分を捨てる(否定する)ことです。たとえば放蕩息子は父から遠く離れることによって、結果として自分を見失いました。捨てるべきはそのような自分なのです。「神のことを思わず、人間のことを思っている」。人は自分を守るため、人を捨てたり利用したりし、ペトロたちはキリストさえ見捨てました。けれどもそこで自分の命を得られたのではなく、反対に失ったのです。そうではなく、そのような罪の中にある自分と距離を置く、さらには否定することがまことの命を得ることなのです。使徒パウロはこのようなことを言っています。「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるたである」(ピリピ3.9、口語訳)。「キリストのうちに自分を見いだす」。キリストから離れたところに自分があるのではありません。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。この告白はまことに正しいものでした。しかしわたしにとってどのようなメシアなのかは、それは日々問われていきます。イエスは「自分の十字架を背負って」と言われました。わたしたちの背負うべき十字架、それはまた「人間のことを思う」肉なる思いなど自分への執着が含まれます。そうではなく互いに重荷を担い合うなかで、イエスをキリストと告白して歩むとき、そこにこそ揺るぎない岩の上に建てられた教会、すなわちイエスが言われた「わたしの教会」がこの世に立ち続けていきます。それは陰府の力をはじめとする世のいかなる力も、決して打ち勝つことができないほどの堅固な城なのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第3_2021年3月7日配信