皆に仕える者   マタイによる福音書20.22-28   2021.3.21  

野方町教会83年の歩みの下、これまでがそうであったように、これからもここにおいて御言葉が語り続けられます。そうした中にあって、わたしの宣教の務めは今日が最後となりました。1年は52週ありますから、10年礼拝を守れば単純計算では520回説教を行ったということになります。その中にはわたし自身として心に残る宣教もあれば、もう思い出せないものもあります。同じように皆さん一人ひとりにとっても、印象深かったものもあれば、そうでないものもあるのではないでしょうか。ただ、たとえ心に残ろうが、反対に忘れてしまったものであろうが、ここで宣教がなされ、聞かれたことは事実です。それはちょうど毎日の食事で何を食べたかどうか、記憶に残るものもあれば、もう思い出せないものもいっぱいあります。けれども覚えていようと忘れてしまおうと、すべての食事は確実に栄養となり、わたしたちの血となり肉となっています。御言葉も同じように聖霊の導きによって、その人の中で成長していくものです。それを信じて、ただ主に委ねるばかりです。

イエスが選ばれた12人の弟子は行動をいつも共にしていました。それゆえイエスを理解するには一番近いところにいたと言えます。そしてほとんどの場合は、他の人々と比べてイエスを一番理解していたと思います。それにもかかわらず最後まで弟子たちとイエスの間には深い溝がありました。今日の箇所の直前に「三度目の死と復活の予告」がなされています。三度ということは、それまでに二度予告されているのですが、その前後関係を見ても、イエスの目指す方向と弟子たちの理解とは逆になっていることが分かります。そのようにイエスはいつも12弟子を伴ってはいましたが、最後までイエスは孤独だったのです。それは今日の箇所でも同様で、三度目の死と復活を予告するイエスに対し、弟子たちの関心は別の方向に向いていたことからも分かります。

弟子の中の2人、すなわちヤコブとヨハネの兄弟の母親が、イエスに自分の息子たちのことで願い事をします。その願いとは、イエスが「王座にお着きになるとき」、息子の1人をあなたの右に、もう1人を左に座らせてくださいというものでした。王座とは「御国を来らせたまえ」と祈るあの御国のことです。いったい彼らはイエスを、またキリスト教をどのように捉えていたのでしょうか。それに対してイエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。それが弟子たちに向けてのイエスの答えでした。自分が何を願っているのか分かっていない。それならわたしたちはどうでしょうか。教会に来ていろいろなことを祈る。また日々の生活で祈ってもいます。しかし祈り求めているものが何なのか、何を願うべきなのか、分かっているのでしょうか。週報の3月の聖句は十字架上のイエスの言葉を記してあります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.34)。この言葉とも共通しますが、人間のエゴイズムによって祈りでさえ自分勝手なものに歪められていくことをよく表しています。

イエスはさらに続けます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。ここで言う杯とは決して喜びの杯ではありません。そうではなく苦難の杯のことであり、具体的には十字架の死を意味するものです。けれども2人の兄弟は「できます」と答えます。このような答えをしてしまうところにも、人間の無知、愚かさを感じます。何を祈るべきなのか、何を求めるべきなのかが分かっていない。しかし勝手に分かっているつもりでいる。その愚かさは何も2人の兄弟に限ったことではありません。他の弟子たちも同様でした。「ほかの10人の者はこれを聞いて、この2人の兄弟のことで腹を立てた」とあるのがそれです。自分たちも願っていたことだけに、この2人に出し抜かれたということでしょう。

そんな遣り取りの中、イエスは一同を呼び寄せて言われます。それが25節以降です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。

偉くなる、いちばん上になる、そしてだれがいちばん偉いのか。これは初代教会の弟子たちにとって大きな関心事でした。また今日のわたしたちの社会でも変わりありません。それに対してわたしたちはどのような答えを用意しているでしょうか。子どもたちから聞かれたとき何と答えますか。弟子たちが理解した偉さとは、この世の基準と変わるものではありませんでした。神の国においてもこの世的な力・権力を握ること、より高い地位につくことが偉く、立派だという価値観です。

主イエスが指し示された偉さ、いちばん上になるとは、権力を振るうことのできる人のことではありませんでした。そうではなく逆に人に仕える人、僕となる人のことだったのです。この26節の「仕える人」は、ほとんどの英語聖書ではサーバントと訳しますが、1611年に発行された欽定訳聖書など古い英語の聖書ではではミニスターと訳しています。宗教的には牧師を意味しますが、政治においては首相などの大臣という意味でもあります。政治を司る者は権力を伴うだけに、仕える人でなければならないといった理念が込められているのでしょう。偉くなりたい、いちばん上になりたい、その願いそのものが問題なのではありません。ただその内容・方向がこの世と正反対にあるのでした。イエスはどれだけ多くの人に仕えられるかではなく、どれだけ多くの人に仕えるかの大切さを語られました。ご自身も自らのために生きるのではなく、人々のために歩まれました。ご自身は富んでおられましたが、あえて他者を富ませるために貧しくなられました。そして最後にはご自分の命を献げられました。讃美歌に次のような一節があります。「主はいのちを あたえませり、主は血しおを ながしませり、その死によりてぞ われは生きぬ、われ何をなして 主にむくいし」(讃美歌332)。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。それはこのイエスが十字架で流された血しおによらなければ決して実現することのない救いの恵みなのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第5_2021年3月21日配信