イエスを十字架につけたのは誰か

マルコによる福音書15章6~15節   2021.3.28

十字架上でイエスが息絶える場面に、心動かされない人は少ないでしょう。しかし、このイエスを十字架につけたのは誰かと問われた時、「はい、この私です」と答える人は、キリスト者以外にはいないでしょう。いやキリスト者であっても、この私ですという思いを、どこまで深く持てるでしょうか。

イエスは平和の象徴である子ロバに乗ってエルサレムに入城します。そのイエスを、人々は自分の服を、また勝利の象徴でもある棕櫚の葉を道に敷いて迎えました。「ホサナ(いま救い給え)、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び、救い主として喜び迎えました。しかしイエスが捉えられ、裁判を受けることになると、祭司長たちに扇動された群衆は、今度は「十字架につけろ」と叫んだのです。

祭司長達がイエスを引渡したのは、ねたみによるものだと聖書は記しています。自分たちの不信仰が明らかにされることを恐れた彼らは、イエスに殺意を覚えます。また権威ある者として話されたイエスに、人々が熱心に耳を傾け、大勢従っていくのを見て、ねたみを覚えても不思議ではありません。

私達も、自分の罪を、欠けや弱さを示された時に、素直に認め、改めるどころか、反論や否定をする、怒りを覚えることもあるかもしれません。そもそも自分は正しいと信じて疑わず、耳をかさないこともあるでしょう。それでは自分の罪に気づくことは難しい。正しいと思っても、自分が気づいていない罪があるのではないかと神様の言葉や隣人の言葉を聞いたときに、初めて気づかされるのです。自分の背中は見えない私達です。誰かに教えてもらわなければ、決して分からないのです。

自分が見えている以上に、見えていないものがある。自分が分かっている以上に、分かっていないことがある。そのことに気づかされる。まさにその時、自分の罪の大きさと、いかにその罪が赦されてきたのかを知るのです。罪だけではありません。どれほど豊かな恵みを与えられているかにも気づかされます。イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を通して、イエスの言葉を通して、礼拝を通して、私達は気づかされ、神様に立ち返るのです。自己中心的な生き方から、他者のために生きる、神中心の生き方に変えられるのです。

自分の力だけでは到底変えられない、立ち返られない。だからこそ、主イエスが共に死んでくださり、共に新しい命へ、新しい生き方へと変えられます。父なる神が、子なるイエスを私達に与え、十字架の死と復活を通して罪から解放し、主に従うものとしてくださるのです。もはや誰が十字架にと問うまでもなく、私達一人一人が主の十字架のもとにいることを覚えます。誰かを裁いたり、赦さないときに、私達はイエスを十字架につけているのです。父なる神が子なるイエスを私達の罪の赦しのために与え、また子なるイエスが、私達のために十字架で死なれたことを覚え、その神の深い愛を思い起こしつつ、この受難週を歩んで参りましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第6_2021年3月28日配信