「共にいる喜び」詩編133編

野方町教会の新年度の年間聖句は、詩編133編の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」を選びました。新型コロナウィルスの影響で、また様々な御事情で、教会で礼拝を守ることのできない兄弟姉妹がおります。しかし一つの御言葉、一つの礼拝を共に守る時、たとえ異なる場所にいたとしても、主イエス・キリストのからだの部分として、しっかりと結びつけられています。

 

アロンはモーセの兄で、イスラエルの最初の大祭司となった人物ですが、2節にあるアロンの頭に注がれ、髭に滴り落ちていく香しい油は、神による祝福のしるしであり、ヘルモンにおく露のようの露とは、雨の少ないパレスチナにおける命の源を意味します。兄弟がともにいる所に、祝福と命がある。様々に解釈できるこの詩編を、私達の教会において味わうならば、主イエスを中心に食卓(聖餐台)を囲んで座っている私達に、父なる神の豊かな祝福と、子なるイエスが裂いて与えてくださった命のからだ、つまり見えるかたちで与えられる聖餐におけるパンと、見えない形で与えられる御言葉が、礼拝においてあるということです。

 

私達がともにあるということ。しかしそれは決して容易いことではありません。パウロの書簡に記されているように、教会は当時から争い、ねたみ、怒り、党派、そしり、陰口、高慢などがみられたようです。しかしこれは今も同じです。そこに平和を与える存在こそ、イエス・キリストです。一節の「共に座っている」の「共に」は「ひとつ」や「一致して」を意味する言葉でもあります。キリストにおいて一つになる、それが教会です。

 

父なる神は、イエス・キリストの一つのからだにおいて、十字架によって神と和解させ、争い分裂しようとする敵意を消滅させました。私達が一つにされるところには、神の愛があるのです。礼拝は、まさに私達を一つにさせます。礼拝の中心は神の言葉です。目に見えないパンである御言葉を頂き、目に見えるパンを、聖餐式で頂きます。そのパンこそ主イエス・キリストのからだです。その一つのパンを主御自身が裂いて、私達一人一人に与えてくださるのです。パンが一つだから、頂いた私達も一つにされるのです。

 

主が与えてくださった一つのものを全ての者と分け合う。良いものも、そうは思えないものもすべてです。喜びは何倍にもされ、悲しみや苦しみは、何分の一にもされます。また主のからだにおいて、私たちはそれぞれの部分として結びつけられています。一人の喜びは全体の喜びであり、一人の悲しみは、全体の悲しみでもあるのです。それでも自分のものにしてしまう、自分だけが担おうとする、手放せない私達です。しかしこの人のためなら手離せる、分け合えるという人に神様は出会わせてくださいます。それがイエス・キリストです。礼拝を守る一人一人の中に生きるイエス・キリストです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第2_2021年4月11日配信