「貧しさゆえに豊かにされ」 マタイによる福音書5章3-12節

イエスの最初の説教は、「心の貧しいものは幸い」という言葉から始まります。
この三節を別の言い方をすれば、「幸いなるかな 霊において貧しき者、天の国はその人のものなり」となるでしょうか。霊とは神様御自身、また神様の働きだと考えれば、神様以外に依り頼むものがない者は幸せだということです。
神様以外に頼るものがない、それは自分の力でなんとかしようとせず、またお金や地位、権力、知識にも頼らないということ。神様に全て委ねるということです。勿論何もしないというのではなく、自分の思いではなく、神様の思い(御心)に従うということ。足掻いたりりせず、力を抜いて、神様にお任せするということです。

イエスに従おうと集まってきたのは、様々な病気や苦しみに悩む人々でした。自分ではどうすることもできず、イエスに救いを求めてきた人です。その人たちをイエスはいやされ、そして幸いだと言われたのです。心も体も健やかであることを私達は求めます。しかし時に人間は傲慢になります。自分一人の力で生きている、自分の思い通りに生きられると思いがちです。本来は欠けや弱さを持っているのに、気づかないか、認められない私達です。だからこそ、神様によって、神様の言葉によって、自己中心的な傲慢な、罪ある自分に、欠けや弱さを持つ自分に気付かされます。他者によって生かされていること、自分の欠けが補われていること、罪が赦されて、神様また他者との関係の中で生きることができる大きな恵みを知るのです。神に依り頼む貧しさがなければ、自分の罪に気づかず、また神に立ち返ることもできません。

どうしたら、神様を前にして、貧しくなれるのか。低くなれるのか、小さくなれるのか。自分の力ではできないことです。その気にはなれても、上辺だけで終わってしまいます。
私達を低くし、小さくし、貧しくするのは、御言葉の重みです。いかに神の言葉を神の言葉として聞くことができるか。どうしたら重みを感じることができるか。どんなものも、神様の恵みとしていただくのです。恵みの一つ一つに重みを感じてこそ、その重みで幾らでも低くされるのです。神の恵みの大きさに、いくらでも小さくされるのです。

どんなものも当たり前だと思わない。神様から頂いたもの。他者を通して与えられたもの。裸で生まれてきた私達に、すべて神様が与えてくださったものと考えれば、そこに重みを感じます。今日もかけがえのない命を与えられ、かけがえのない一日を与えられているのです。
何よりも、私達の目の前には、主の十字架があるのです。その重みを今日も感じることができます。主が共に担ってくださっている、この私の罪の赦しのための、救いのための十字架です。計り知れない神の愛の重みなのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第3_2021年4月18日配信