信仰によって固く結び合う

コリントの信徒への手紙一 1章10-17節

 

このパウロの手紙を通して、神様が私達に求められておられるのは、心を一つにし、思いを一つにして固く結び合いなさい、ということです。コリントの教会では指導者が何人かいて、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」「私はキリストにつく」と党派ができ、争いが生まれていました。それは今も変わりません。教会も人の集まりですから、声の大きい人、

我や押しの強い人、地位があったり、先生と呼ばれるような人たちが中心になってしまいます。そして教会が自己実現の場になってしまう。

 

人間が目立ってしまい、肝心の神様、イエス様が影に隠れてしまうということがあります。礼拝は二の次、教会が単なるサロンになってしまうこともある。会堂建築やオルガンやエレベーターを入れるか入れないか教会が二分してしまうこともあります。教職が複数いると、反対派にかつがれて、互いに対立してしまうことも。それぞれ主導する者があり、それに従い、分かれる。牧師が辞めると、その牧師についていってしまう信徒もいます。しかし私達が従うのは、イエス・キリストただお一人です。

 

本来、信仰において、教会において、あれやこれやということはない。ただ一つです。それを共に与る。一つに見えないのは、一つを共に分け合うことができないのは、己が死なず、主イエスが死んでしまっているからです。十字架は、我々自身が、主イエスを十字架につけてしまっていることを思い起こさせます。イエス様、イエス様と言い、主イエスを愛していると声高に言う者が、イエスを十字架につけているのではないか。

 

しかしその争う両者の間に主イエスがおられ、十字架と復活の出来事によって、主イエスのからだにおいて一つにされるのです。一つの教会を与えられ、一つの礼拝を守り、一つの御言葉、主自ら裂いて与えてくださる一つのパンに共に与る。この一つのものを共に分け合うことで、私達は一つにされるのです。新型コロナウイルスの感染拡大によって、各家庭で礼拝を守らなければならない私達も、この一つの礼拝、一つの御言葉、一つの説教に共に与ることで、神様に、主のからだである教会に、また私達、兄弟姉妹が、共に固く結びつき合うのです。勿論、自分の力で結びつくのではなく、神様が結びつけてくださるのです。この世的な家族や、友人の関係とは違います。真ん中にイエス・キリストがおられるということ。

 

この固い結びつきこそ、揺るがぬ信仰の力となるのです。信仰は一人で守れるものではありません。共にこの御言葉に与る、主の食卓を囲んで、共に頂くからこそ、信仰は与えられるのです。救いの確信、希望を与えられるのです。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の、三位一体の神様との交わり、結びつきの中で、主の道を力強く歩んで参りましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第4_2021年4月25日配信