「あなたも招かれている」
コリントの信徒への手紙一 12章12~31節
 
あなたがたはキリストの体であり、またその一人一人はその体の部分であるとパウロは言います。私達の教会も、信徒一人一人が、それぞれ見える形、見えない形で教会を支え、それぞれの働きを担っています。与えられている賜物が、豊かに用いられています。この主イエス・キリストの体である教会は、出来上がってしまったものではありません。更に成長していくものです。この体に更に加えられる、招かれている者がいるということ。初めてこの言葉に出会う人も、ここに招かれているのです。
 
この教会、主イエス・キリストの体には、どんな人も招かれています。あなたも招かれている。もちろんそう言われた時は、自分のこととして受け止めるでしょう。しかしその次に、自分の家族や友人、知り合いのことを心に浮かべるでしょう。自分だけでなく、その人達も招かれているのです。教会に誰もが最初はお客様として招かれます。しかし教会から出ていくときには、今度は神様の言葉を携えて、それを求める人のところへ送り出されるのです。もはやお客様ではありません。与えられた者から、与える者へ。招かれた者から招く者に変えられる。仕えられる者から、仕える者に変えられます。それが礼拝であり、教会です。教会、礼拝に招かれているということは、神様に用いられようとしているということです。
 
説教、また神様の言葉は、聞いて満足して終わりではありません。その言葉を神様から託されているのです。その言葉が、送り出されたそれぞれの場、家庭や学校、職場、地域で活かされた時、初めてその言葉の意味を深く味わえるのです。自分の血と肉となるのです。礼拝で聞いておしまいにするのではなく、何度も咀嚼し、一週間その言葉で生きる、生かされるのです。そしてその姿こそ伝道、宣教となるのです。説教も、御言葉も、頭で理解するだけのものではありません。その人の生き方が変わってこそ、変えられてこそ、体で分かってこそ、初めてその言葉は生きるのです。神の語りかける言葉は、説教、礼拝の時だけではありません。絶えず語られています。私達は日々聞き続けるのです。聞こえるまで、その言葉と向き合うのです。何度でも繰り返し味わうのです。
 
主のからだである教会という群れに招かれて、一人一人が、かけがえのない存在として、主のからだの一部、肢(えだ)としてイエス・キリストにつながり、生かされ、養い育てられる。この教会、この主イエス・キリストを頭とする体において、私達は豊かにされるのです。そして父なる神様、子なるイエス・キリスト、聖霊との交わりにおいて、永遠の命を与えられるのです。その交わりにあなたも招かれているのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第6_2021年5月9日配信