「与えるなら惜しみなく」 マタイによる福音書5章38-42節

復讐を題材にした小説やドラマ、映画は少なくありません。しかしイエスは、悪人に手向かってはならないと言い、復讐することをよしとしません。右の頬を打たれたら左の頬を向け、下着を取られたなら、上着も取らせ、一ミリオン(1500m)行くことを強要されたなら、二ミリオン行きなさいと言われる。求めるものには与えなさいと。
 
これはイエス・キリストの十字架の出来事を思い起こさせます。イエスは捕まえられるときも手向かうことなく、鞭うたれ、着ているものをはぎ取られました。弟子と共に歩まれた主イエスは、世の終わりまでさらに共に歩んでくださる。イエスを殺せと言う群衆の前で、十字架上で命を捧げられました。
 
確かに求められるままに与えていたら、手にしているものはすべて無くなるでしょう。しかしどんなに奪われても、残るものがあります。すべてを失っても、絶えず与えられるものがあります。それが神の言葉です。礼拝で、説教で、日々の歩みの中で、絶えずこの神の言葉をキリスト者は与えられます。最後まで与え続けられます。この言葉こそ、私達を生かし、養い、成長させるものです。確かにお金も、地位も名誉も大事でしょう。しかしお金では決して買えないものが、神の言葉です。
 
貧しい者は幸いと言われます。それは貧しいからこそ、神の言葉によって豊かにされているからです。お金や欲で心が満たされているのではなく、神の言葉があふれている。神の言葉は、人を赦し、人を愛し、人に与える者へと人間を変えます。神の言葉と人の言葉は何が違うか。犠牲を伴って神の言葉は与えられています。自分の大切な何かを他者のために用いて語られる言葉です。イエス・キリストは、自分の命を犠牲にして私達に言葉を与えられました。だからその言葉には命があるのです。
 
人を支え、人を慰め、人を励まし、人を立ち返らせ、人を変える言葉、人を成長させる言葉、人を生かす言葉。それは、その人にどんなことがあっても踏みとどまる人の言葉です。その人の重荷を、苦しみを、悲しみを共に担おうとする人の言葉です。それは主イエス・キリストによって、重荷を担われた人の言葉です。主イエスによって救われた人の言葉です。その言葉をいただいた者は、惜しみなく与える人なのです。裸で何も持たずに生まれてきた私達、手にしているものは誰かのために用いるものとして託されたもの。惜しみなく用いた時にこそ、神様はさらに豊かに与えてくださるのです。与えれば、与えるほど豊かにされるのです。自分のためではなく、他者のために用いた時に、その他者から、さらに豊かなものを受け取るのです。
 
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第8_2021年7月11日配信