「限界が喜びに変わる時」
ヨハネによる福音書 2章 1-11節 中西 理恵牧師

「ぶどう酒がなくなりました。」

母マリアの訴えは、切実だったことでしょう。当時の婚礼は、花婿の家にとって家運をかけた一大事だったそうです。多くの人を招いて共に喜ぶ祝いの席に欠かせないぶどう酒がなくなってしまった。お祝いの席は落胆の気持ちで覆われてしまうかもしれません。

祝いの席を台無しにしたくないという切実な思いで、主イエスに助けを求めたことと思います。

ところが主イエスはおっしゃいます。

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

なぜこのようなそっけない言葉をおっしゃったのでしょうか。主イエスの意図は何なのか。

福音書を読み進めると、主イエスのこのような言葉に出会います。「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとする」(530節)。

主イエスは自分の思いではなく、父なる神の思いが実現することを第一に考えておられるということです。切実な願いであっても、それを実現する力があったとしても、父なる神の御心に自分の思いが割って入ることはできない。主イエスの存在も働きも、すべては父なる神の御心が実現することに集中しているのです。

主イエスの答えを聞いた母は召し使いに伝えました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。この母の言葉は、主イエスに拒絶されたと受け取ったのではなく、主イエスのご意志、ひいては神のご意志を一番に考えたということです。そして、すぐに従えるように準備をしました。

この母の行動は私たちに祈りの姿勢を教えてくれます。母の言葉には、たとえ自分の思っていた答えと違ったとしても、信頼して従おうとする姿勢が現れています。

求めに対する答えは自分の思いとは違うかもしれない。それを象徴するかのように、主イエスが召し使いにお命じになったことは驚くような内容でした。水がめに水をいっぱい満たし、それを宴の席に持っていくようにとおっしゃいます。「さあ、ぶどう酒を運びなさい」と言われたなら喜んでやったことでしょう。けれど、ぶどう酒が足りないといって困っている宴会の席に水を運ぶようにと言われる。

人々が求めているものとは違うものを運ぶように言われる。それでも召し使いたちは主イエスの言葉に従いました。そしてその水は、祝いの席で今まで以上に良いぶどう酒に変わっていたのです。

カナでの婚礼は、次のような言葉で締めくくられています。

11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

この一連の出来事は、ぶどう酒によって危機が回避されたということにとどまりません。主イエスが栄光を現わしてくださり、主イエスへの信仰を与えてくださった出来事です。これこそが父なる神の御心でした。神は私たちを一人も失いたくない、神と共にある喜びに満たされて生きてほしいと願っておられる。その御心を実現するために、ついに主イエス・キリストは十字架上で御自分の血を流してくださいました。その血潮によって私たちの罪は決定的に洗い流されたのです。主イエス・キリストによって私たちは神に決定的に受け入れられている、これを信じることこそが父なる神の御心です。主イエス・キリストへの信仰を与えてくださり、私たちを神の永遠の命に生かしてくださる、これ以上の奇跡があるでしょうか。

主イエスが用意してくださる尽きない喜び。神との親しい交わり。それらは私たちが求めていたものではなかったかもしれません。けれど、これこそが私に最も必要なものだったのだと気づく時が来ます。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第3_2022年1月9日配信