「従順を学ばれた主イエス」  秋山徹牧師

詩編 139篇 1-12、ヘブライ人への手紙 5章 1-10

ヘブライ人への手紙は、信仰の道に入った故に、周囲の社会からも、また、国家からも迫害を受けており、「あなたがたはまだ、罪と闘って血を流すまで抵抗したことがありません」(124)と語られるほどに緊迫した厳しい状況に直面させられている教会に宛てられた手紙です。この世に生きる教会もわたしたちキリスト者も、時としてこのような厳しい状況に立たされます。この中で「キリストは御子であられたにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と語られる不思議な言葉に出会います。

神の御子、主イエスを通して示される救いは、御子が「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」という決意、そして、「あらゆる点でわたしたちと同様に試練に遭われた方」による救いであることが明らかにされています。

ここから、御子主イエス・キリストが受けた試練、味わわれた苦しみがどのようなものであったかを語るのです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。(5710)

ここでわたしたちは主イエスが十字架につけられる前夜、「この杯をわたしから取りのけてください」と汗を血のように流しながら祈られたゲツセマネの祈りや、十字架上で「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれた叫び、その情景を思い起こします。主イエスは、無知な迷っている人と同じ地平に立って、その苦しみをただそばに立つ人として深く理解し共感するだけでなく、主イエスご自身が自ら肉を身にまとうものとして、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈らなければならなかった、その壮絶な叫びや祈りを、この手紙は「従順の学び」と表現しているのです。

この言葉の内には意外性と驚きが込められています。世界を創造し、万物をその御手において支えておられる神の御子が、何故に人と同じ血肉を備え、弱さを身にまとって、従順を学ばなければならないのか、その必然性はどこにあるのでしょうか。血肉を備えたもの、つまり、動物にしても人間にしても学びが必要です。人の一生は学びの連続であり、学びによって言葉を身につけ、知識や技術を身につけ、学びと交わりを通して世界の広がりを経験し、そこから喜びと生きがい、充実を経験します。それはまた、自分の限界、死への恐れとの闘いでもあります。教会生活も学びが必要です。キリストと一体にされて自由にされたと言っても、いまだなお罪と死に捉われている者の営みとして学びは必然です。しかし、このような学びは神の御子にとっては必然ではありません。にもかかわらず、「キリストは御子であられたにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」のです。神の御子、天と地の創造者主イエスは、わたしたちの兄弟となってわたしたち同じ血肉を持ち、弱さを身に負いながら従順の学びをすることを良しとされたからです。そこにわたしたちの罪と弱さに対する神の憐みと慈愛があることをおぼえます。

主イエスが人として生きることにおいて学ばれたことは何であったのか。その従順の学びはゲッセマネの園やゴルゴタの十字架の上の苦しみの時だけに局限されるものではなかったでしょう。主イエスの時代のユダヤの人が経験するすべてのこと、ガリラヤのナザレの大工やガリラヤの漁師たちの生活、富める人や貧しい人、取税人や遊女たちのありよう、ファリサイ派の人々や律法学者の敵意と偽善、福音書を通して知る主イエスを取り巻く人間模様はすべて主イエスの学びの対象であり、神の前に生きる人々の有り様すべてを通して、主の学びとなったに違いありません。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代を金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ1045)。そのような決意のもとで学ばれたのです。それは従順の学びであって、主イエスの目と耳は天の父に向かうと共に、地の底からの声に向かって開かれています。全人類の罪を背負うことを従順に引き受け、罪の結果としての死を負うことに向かいます。それがどれほど重い苦悩であったか、わたしたちは想像もつきません。その祈りは聞き入れられました。このようなところにまで引く降られ、死を遂げられた御子の働きが永遠の救いの源となったのです。わたしたちはこの主イエスの従順の学びによって、罪を赦された者として生きる希望が与えられ、救われています。

ここでこの言葉を聴くときに注意しなければならないことがあります。それは、まじめなクリスチャンであれば直ちに主イエスが従順を学ばれたのだから、わたしたちもその姿に倣わなければと聴きとることへの注意です。この言葉はそのような安易な従順の模範に従うようにと告げているのではないのです。むしろ、416で語られたように、「だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と言う勧めを聴かなければなりません。御子主イエス・キリストの従順の歩みは、わたしたちの日常にまであゆみ来たって、低く降り、自らを絶望に追いやるような歩みしかできない頑なな罪人であるわたしたちであるにもかかわらず、わたしたちに伴ってくださり、今ここに共に礼拝の場にまでわたしたちを導いて下さっている。その恵みと憐みを深く感じ取ることが何よりも大事であり、ここから「大胆に恵みの座に近づくこと」、このことが勧められているのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第8_2022年2月13日配信