「教会に注がれている確かな希望」  古屋治雄牧師

詩編 27篇 1-4、エフェソの信徒への手紙 1章 15-23

今朝野方町教会の皆様と主の日の礼拝を共にできますことを主に感謝します。皆様にとりましては特に昨年末からこの2022年に入って二つの困難を経験しておられるかと思います。一つはコロナの勢いが私たちを襲っていることです。これは野方町教会の皆様だけでなく、広く私たちが今経験していることです。それぞれの教会でその現状を踏まえてどうしたら安全に礼拝を行うことができるか、工夫を凝らして対応しているかと思います。礼拝に行きたいけれども行って大丈夫か、行かない方が良いのではないか。今もそうですが、迷っている方が大勢おられるかと思います。阿佐ヶ谷教会も今配信による礼拝を中心にして、無理をして礼拝堂に集まることは控えてくださいと言ってます。本来ならば私たちは信仰者として万難を排して礼拝に集まるのが当たり前ですが、そのように言うことができない現状が今私たちを覆っているのです。こういうことは今まで経験したことのない事態です。礼拝生活を大切にしたい、しかし教会に行くことを控えなければならない、あるいは教会に行けない、という矛盾を抱えながら今私たちは教会生活をしています。

第二番目の野方町教会の皆さんが負っている困難は、いろいろな事情があって現在主任牧師が不在となっていることです。今この現状に何とか堪え、乗り切っていこうと長老方を中心に皆さんが危機感をもっていろいろなことに対応しておられます。そのような中で歴史的には深い関係をもつ阿佐ヶ谷教会の牧師が代務を務めるようにと、教区議長の願念先生からまた皆様から要請を受け、また皆様の窮状を思い古屋が代務者の重責を負うことになりました。池谷先生の前におられた高橋敏通先生は、私が西中国教区時代一緒でよく存じ上げていました。野方町教会が二重の困難の中にあることから何とか脱して、野方町教会の群れがイエス様の福音に養われ、広く福音に生きる喜びを周囲の人々に証ししていくことができますように。微力ながらそういう群れとされるようにと強く願っています。神様はこの困難を通してきっと野方町教会を鍛え、強めてくださることを信じるものです。

長老の皆様とはすでに2回長老会を行い、またメールでのやりとりも行い、特に主の日毎の礼拝に諸先生方のご協力をお願いしてしっかり守れるようにと努めているところです。今日も礼拝後に新しい主任牧師をどのようしてお迎えするか、招聘委員会を開く予定にしています。

今どこの教会もコロナの中でともかく礼拝を維持していくことが中心になっていると思います。礼拝が信仰生活の中心であることを私たちは承知していますが、コロナのことでその受け止め方が違ってきました。礼拝に出席することはその気になりさえすればいつでも参加できると思っていました。しかし、礼拝に出席できることは私たちの思いでいかようにもなることなのではなく、神様が私たちのために主の日を備え、招いてくださっているのではないでしょうか。

今朝の礼拝で旧約聖書の詩編27編の御言葉を聞いています。旧約の信仰者たちが「主はわたしの光、わたしの救い」と告白しています。この告白は信仰生活を順調に送っている人がそこから感謝を歌っているように思えるのですが実はそうではありません。2-3節をみるとそのことが分かります。そしてその困難の中で何を拠りどころにしているかと言うと、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを」(詩編27:4)と告白しています。ここに語られていることはエルサレム神殿に行って神様を礼拝することに外なりません。私たちの礼拝のかたちとは異なりますが、旧約時代の信仰者たちが神様にまみえることを拠りどころにしていることが分かります。そこで神様から信頼と安心をいただき「主はわたしの光、わたしの救い」と告白しているのです。

困難の中礼拝を第一に私たちの生活を組み立てていくとき、不安に勝る安心が神様から与えられているのです。私たちも礼拝に集まることが可能な時には集まり、困難なときでも配信による礼拝に参加すること、それも叶えられない場合には、礼拝説教を印刷物などによって読むこと等もあるでしょう。野方町教会の皆さんが主任牧師を欠く現状にあっても、礼拝という求心力を神様から与えられていることを知らされること。このことはとても大切なことです。野方町教会は間違いなく神様によって礼拝共同体とされています。そして一人ひとりがその中で確かに神様によって守られ支えられているのです。

今朝皆様とともに詩編27編だけでなく、エフェソ書からも神様の御言葉を聴きたいと願いました。エフェソに限らず新約聖書の手紙=書簡は、書き送られたそれぞれの教会に課題の種類は異なってもいろいろな問題を抱えている中、そのことを知っている教会指導者たちが書き送った手紙が聖書となって私たちにまで届いているのが現状です。分量的に一番たくさん書き送られたのはパウロによるコリント書です。そこにはたくさんの具体的な事柄に対する勧告が綴られています。1月末に出された「あかしびと」にコリント書からの御言葉を紹介しましたが、エフェソ書にも困難に直面している教会に驚くべき御言葉が伝えられています。

19節以下に目を向けます。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」この言葉をこの言葉通りに受けとめるならば、私たちはびっくりし、たじろいでしまいます。エフェソの町そのものは当時かなり大きな町でした。30万〜40万人くらい人口がありました。しかしエフェソの教会の群れはどうだったでしょうか。町全体からすれば極めて少数でした。初代教会時代大きな教会堂が建っていたわけではありません。後に教会はローマの聖ペトロ大聖堂のように目に見えるかたちで教会の権威を知るようになりますが、この時代そんなことにはなっていませんでした。この手紙を読み進んでいくとはっきりしますが、まだまだ未熟な、教会の内側にも様々な混乱と弱さを抱えていたのが現状です。しかしパウロの名前で呼びかけているこの教会の指導者は、ここで教会に注がれている神様の力を誇大妄想に囚われてこのように語っているのではないのです。現実を直視しないで大言壮語しているのでもないのです。

ここに神様の力に満たされている「教会」のことが大胆に語られていますが、この教会に注がれている力を抽象的なことではなく、はっきり理解するために、教会の前に私たちが連なっているそれぞれの教会の名前を入れて聞いたらよいと思います。22節「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として野方町教会にお与えになりました。野方町教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と。

これは信仰生活をしている私たちに、信仰によってしめされている奥義です。ですから一般の人々は決して教会に注がれている本当の権威を認めることはないでしょう。しかし、主の群れには、イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださり、しかしそこから復活されて、私たちをも復活の生命に生かしてくださり「天の王座に着かせてくださいました」(2:6)とさえ言われているのです。

私たちは、私たちの教会に注がれている恵みがどんなに大きな恵みであるかに気づかされ、知らされる度毎にキリストの前に謙り、その恵みを心から感謝することができます。パウロは今日の聖書の箇所でまず神様への感謝を語っています。教会に私たちが結ばれていることは神様の憐れみによるのです。

試練の中にある野方町教会を神様は今まで以上に御霊を注いでくださり、「神様の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」と、祈ります。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第9_2022年2月20日配信