宣教 「最強の味方」  上田 充香子牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8:31~34

ローマの信徒への手紙はパウロがローマの教会に向けて書いた熱い手紙です。8:31には「敵」「味方」という言葉が出てきます。私たちの生活を振り返ってみた時、「敵」「味方」が色々なところに思い浮かぶのではないでしょうか。仕事、家庭など自分を取り巻く人間関係の中には、分かり合っている人は味方ですが、意見が合わない、自分にとって壁や障害となるような人は敵に思える時があるでしょう。自分以外だけではなく、自分自身が敵となることもあるでしょう。様々な敵を前に、パウロは確信をもって、「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか。」と断言しています。

「味方」となってくださる主イエスは、わたしたち「すべて」のために死んでくださいました。この「すべて」には、私たちが敵(罪人である自分)と戦っている時だけではなく、時にその戦いに負けてしまう時、また罪を犯す無自覚な自分をも含んでくださいます。どんな「すべて」であろうとも、その私たちのために主イエスは十字架へと向かってくださいました。そして、父なる神様は独り子である主イエスを「惜しまず」死に渡してくださる程に、私たち人間を愛してくださいました。御子だけではなく、「すべてもの」を私たちにくださるのです。

人はだれでも人の目が気になります。出来ることなら自分に対して良いイメージを持ってもらいたいと自分を繕います。「だれが/訴える」という言葉には、人から訴えられるイメージ、また「だれが/罪に定める」という訴えられ、その後刑に定められることがあるでしょう。自分を罪に定めることが出来るのは、その罪を知っている自分自身、また自分よりもその罪をご存知の父なる神様しかおられません。しかし、父なる神様は私たちを訴えることなく、罪に定めることなく、「あなたを罪に定めない」と赦しと救いをお与えくださるのです。主イエスが父なる神様との間に立って「執り成して」くださるからです。そのようにして「無罪」を与え、そればかりでなく、「義」をも与えてくださるのです。

このように、神様が味方でいてくださることは、私たち人間にとってどれだけの強さとなるでしょうか。主が味方でいてくださるならば、誰も何もわたしたちに敵対できないのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第10_2022年2月27日配信