宣教 「涙の国から、神の国へ」 加藤真衣子牧師

ヨハネによる福音書16:16~24

ヨハネによる福音書16章には「悲しみ」という言葉がたくさん出てきます。イエスさまが間もなく捕らえられ、十字架にかけられてしまうからです。そのことは弟子たちに深い悲しみをもたらすことを、主はご存知です。しかし、16章は「悲しみ」で終わってはいません。「悲しんでいるけれども、それは喜びへ変えられる」ということが語られます。

私たちの生活や人生は、文章で言えば「・・・・、」までの部分しか、私たちには見えていません。悲しみや困難の渦中にいるときは、そのことでいっぱいになりますが、そこはピリオドではなく、まだ続きがあるのです。そしてその「続き」(文章でいえば「・・・・・。」の部分)には、喜びや幸せがあるのだと、主は十字架にかけられる前に、何度もお語りになるのです。

20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とあります。「変わる」という言葉は、もともとの言葉では「~に成る」、「~が生まれる」、「造られる」という意味の言葉です。「変化する」というよりも、悲しみの中に「喜びが造られる」という意味です。誰が造るのでしょうか。父なる神さまです。造り主が、わたしたちの悲しみの中に、神さまの喜びを、神さまの幸せを造ってくださるのです。しかもその喜びは、なにものからも奪われず、消え去ることがないと、主はおっしゃるのです。

目に見える世界では、涙の国に置かれているようなわたしたちの現実かもしれません。家族の病気、自分自身のハンディキャップ、日々の仕事には困難があり、家庭の中でも試練がある。コロナ感染症がようやく収まってきたと思うと、また感染者が増える。教会では感染対策にあけくれて、みんなで一堂に会して喜びの賛美をささげることも難しい日々が続いています。その間に齢を重ねてしまって、とても教会まで足を運ぶことができなくなった方もおいでです。誰もが老いの現実につきあたります。あるいはそれを支える家族も、大変です。大事な人との別れもあります。大事な人を天に送る悲しみは、時が過ぎてもなかなか癒されることはありません。イエスさまがいらっしゃらなければ、泣くしかないというほど、私たちは失うことに囲まれた生涯を送っているのではないでしょうか。

しかしわたしたちの神さまは、造り主でいらっしゃるので、喜びを造り出してくださるのです。最初に神さまは、カラッポの空虚なところに、とてもそこでは生きられないような、果てしない「混沌」に、言葉によって光を造られました。天地すべてを造られました。そして「夕べがあり、朝があった」と、天地創造の記事は繰り返して告げます。「夕から朝へ」これが神さまの時間のつくり方です。キラキラの朝から悲しみの夜へ、ではなく、「夕から朝へ」、闇から光へ、苦難から喜びへ、十字架から復活へ、これが神さまの造り方、なさり方、神さまのみ心なのです。

この目に見えずとも、この世界や、私たちの人生を支配し、導いているのは、悲しみでもなく、コロナでもなく、誰か人間でもなく、神さまです。今の悲しみには、神の国へと続くプロセスです。主にあっては、わたしたちの死さえも、終わりではなく、カンマに過ぎません。まだ先があります。地上の死別を超えて、天で、もう一度愛する人と一緒に生きる日々が、まだたくさん残っています。地上での日々とは比べ物にならないくらい、幸せな、最上の日々が、天で、約束されています。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第6_2022年4月10日配信