夜明けは近い ローマの信徒への手紙13.11-14 2020.9.6
信仰の証しについて書かれたもの、それを告白文学と称することもできるのでしょうか。このような書物は世界に数えきれないほどあります。それは信仰者の数ほどあると言ってもよいと思います。日本で代表的なものを挙げるとすれば、何と言っても内村鑑三の「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」ではないでしょうか。また世界に目を向けると、最も有名なものはアウグスティヌスの「告白」だと思います。その彼の回心に今日の聖書が決定的な影響を与えています。それを見るとき、人によって心に染み入る聖書の箇所は実にさまざまということが分かります。またそうした愛誦聖句は、必ずしも一定するわけでもなく、別の状況では他の箇所が好きになるということもあるものです。
そのアウグスティヌスの回心の様子を少し紹介します。それまでにも彼の魂はいろいろ迷いの中にありました。ある日、隣りの家から、男の子か女の子か知らないが、子どもの声が聞こえました。歌うように「取って読め、取って読め」と何度も繰り返していたと言います。そこでの彼の言葉、「子どもが何かの遊戯に、このように歌うのだろうかと考えてみた。しかしそのような歌はどこでも聞いた覚えはなかった。そこでわたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した」。その箇所こそ、今日の、特に13、14節でした。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」。彼は記します。「この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れ、疑惑の闇はすっかり消え失せた」。そこで彼はローマの司教アンブロシウスから洗礼を受けました。387年のイースターのことで、年33歳の時でした。その後彼は自らの生涯をすべてキリストに献げ、古代キリスト教で最も影響を与える人となりました。著した書物も膨大で500万語にも及ぶと言われています。
「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」。わたしたちは今がどんな時であるかを知っていると言うのです。わたしたちは知っているのでしょうか。今がどんな時であるかを。そしてそのように知っている者として歩んでいるのでしょうか。そもそもこの時とはどのような時のことでしょう。それは人によってさまざまに受け取られるかもしれません。今は新型コロナウイルス感染が世界に蔓延している、そんな危機の時でもあります。それに伴い経済が疲弊している時でもあるでしょう。国際政治においては、外交がうまくいかず、争いや緊張をもたらしている時ということもできます。新聞の社会面に報道される家庭関係の不安定さや、人間関係のこじれからさまざまな事件が生まれる、そんな時でもあります。個人的なところは自分の年齢に基づき、その若さや夢・目標がある時、また年を取ることから生ずる病など心配事を抱えることの多い時でもあります。
パウロがここで述べている時は、ギリシア語でカイロスと言い、神によって備えられた時を意味しています。一回的、決定的な時なのです。言い換えれば、次に続く言葉からも分かりますように、神による救いの時なのです。このように続いています。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。それはイエスの宣教の第一声、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」に共通するものです(マルコ1.15)。まさに今や、恵みの時、今こそ、救いの日、そのような時なのです。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」とは、このように神による救いの時のことなのです。
ただその救いの時は近づいているのであって、まだ完全に到来したわけではありません。けれどもその時は限りなく到来したと言えるほど近づきつつある、そのような時でもあります。「夜は更け、日は近づいた」とあるとおり、刻々と近づく夜明け、そのような時の間にわたしたちはいるのです。こうした独特の時の捉え方が、わたしたち信仰者に与えられ、それが目覚めた者とさせているのです。イエス・キリストによる十字架の赦しと復活によって救いは完成しました。またその主を信じバプテスマを受けることによって、わたしたちは救いに至りました。そのような恵みに基づき、他方では完全な救い仰ぎ見ながら、「御国を来らせたまえ」と、また「主よ、来てください」(マラナ・タ)と祈りつつの生活する者でもあるわけです(1コリント16.22)。
今がどんな時であるかを知っている者として歩む。そこで次のような勧めがなされます。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。ここには二つが相反するものとして対比されています。一つは闇と光、もう一つは脱ぎ捨てることと身に着けるというものです。闇とは何でしょう。それはアウグスティヌスではありませんが、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」といったようなものです。それを服の脱着にたとえて、脱ぎ捨てるべきものと言います。それに対して光の武具とは何でしょう。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」との言葉に言い表されています。武具とは兵隊が戦闘用に身に着けるものです。鎧とか鉄兜のようなものです。今がどんな時であるかを知っているならば、目を覚まして、信仰の戦いに備えていなくてはなりません。それをまとめて他の箇所ではこのように勧められています。「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いと希望を兜としてかぶり」ます(1テサロニケ5.5以下)。
わたしたちは皆バプテスマによって、既に新たに造り変えられました。主イエス・キリストを身にまとう者とされたのです。だからこそいっそうそのような者として、言い換えれば今がどんな時であるかを知っている者として目覚めて歩んでいくように導かれていくのです。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」、つとめて落ち着いた生活をしていくのです。それが夜明け直前を生きる者、今がどのような時であるかを知っている者としての歩みではないでしょうか。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。