「手放してこそ得るもの」 コリントの信徒への手紙一 1章18-25節
教会にも、礼拝堂にも十字架が掲げられていますが、それはまさしくイエス・キリストが磔にされた十字架です。そして私達が伝えているのは、この手紙を書いたパウロが言うように、十字架につけられたイエスです。しかしキリストは神の力であり、神の知恵です。
なぜ十字架で殺されたイエスを伝えるのか。それがなぜ私達の救いになるのか。私達はイエス・キリストの言葉、そして十字架の死と復活の出来事を伝えています。十字架の死は手放すことを意味します。イエスは私達の救いのために命を手放された。そうして神の言葉であり、私達の中で生きる言葉、私達を救い、根本的に変え、養い育てる言葉です。私達の中で神の言葉が生きる、それは、イエス・キリストが生きること。そしてそれは、私達が死ぬということ。洗礼を受ける時に経験することです。
自分の思いが無くなることはありません。だから死ぬ必要があるのです。己が死んで、空になったところにイエスが生きる。神様の言葉が生きる。それは手放すことです。握りしめているものを捨てる、自分の思いを捨てるということ。私達の信仰の歩みは、この手放すことにあると言ってもいいかもしれません。
礼拝では、自分の思いを捨てなければ、神様の言葉は入っては来ません。また礼拝は日曜日に守ります。一般にはお休みの日です。しかしその休みを捨て、神様の時間として捧げる。隣人を愛するということも、自分の立場や思いを捨てて相手を受け入れることです。自分の手にしているもの、賜物、知識、経験、時間を手放して、献金をしたり、奉仕したりします。また年齢を重ねていくことは、できていたことが一つ一つできなくなっていくこと、それも手放すことでしょう。そうして最後に命を手放して、神様のもとへと帰っていく。また私達は日々新しくされます。変わろうと思えば、いつでも変われます。神様が変えてくださる。しかし変わらないと思う気持ちを捨てなければなりません。また自分の力だけで変わろうとする気持ちも捨て、神様に委ねなければなりません。
そうして手放していくことで、私達は気付きます。全てを手放しても、失っても、残るものがあることを。それが神の言葉、十字架の言葉です。どんな時も与えられ、誰にも奪われないものです。この十字架の言葉は、私達が何かを捨てて、得る言葉ではありません。父なる神が、愛する子を私達に与え、また子なるイエスが、私達の救いのために命を捧げて、与えられた言葉だからです。神様が失って、私達が得た言葉です。だからこの言葉には命があるのです。永遠の命です。
この言葉によって、私達は何より、自分の弱さ、欠け、自分が神様になってしまう罪に気づきます。言い換えれば、誰かの犠牲なしには、自分の罪には気付けないのです。イエスの十字架の死と復活の出来事を知ることで、私達は神様に立ち返ることができます。何度倒れても、失敗しても、復活の主と共に起こされるのです。この十字架の言葉を与えられている恵みを覚えて、私達もこの十字架の言葉を力強く語っていきましょう。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。