「暗闇の中でも」

創世記 第1章1節~13節、ヨハネによる福音書 第6章16節~21節

神代真砂実牧師

夕方になって、暗くなりました。闇が広がってきます。そのような中、イエス・キリストの弟子達は、自分達だけで舟に乗り、向こう岸を目指して、湖に漕ぎ出し、進んでいきます。しかし、そこに「強い風が吹いて」、この大きな湖は「荒れ始め」ます。ちょうど、道のりの半ばあたりまで来たところで、不安を覚えています。闇の中で、水の上にいて、激しく風が吹き、湖は荒れている。しかも、頼りになる方がおられない。――そういう中に弟子達はいます。

これと同じような様子が「創世記」の始めのところにも書かれています(第1章の2節)。闇があり、水があります。風については、「神の霊」とあるのが、ある学者達によれば、風のことで、これは「吹き荒れる風」といった意味に読めるのです。しかも、この2節では、死に覆われ、荒れ果てた大地や、廃墟と化した町のことを描く言葉が使われています。

そういうわけで、きょうの「ヨハネによる福音書」の箇所が伝えている弟子達というのは、これまで知っていた世界が崩れ落ちてしまったとしか思えない中、自分自身もボロボロになって、どこに希望を見たらよいのかわからないでいるような私達の姿を表していると言ってよいでしょう。決して、ただ、荒れる湖の上で立ち往生しているというだけの話ではないのです。

しかし、どうして、私達が生きる、この世界というのは、そのようなものなのでしょうか。改めて、「創世記」の方の記事を手がかりにして考えてみますと、そこで描かれているのは、国が亡び、都は廃墟になってしまった様子です。それは、イスラエルの人々が神様に背き続けた結果でした。神様から離れているために、闇と、私達の命を深いところで脅かし、私達の人生を荒れ果てたものにする危険とが、私達に押し迫ってくるのです。

事情がそのようなものであるのであれば、その唯一つの解決の道は、神様によるしかありません。私達を救って下さる救い主、そして、神の独り子として、真に神であられるイエス・キリストが来て下さるのでなければならないのです。

きょうの「ヨハネによる福音書」の箇所に、よく似た記事が他の福音書にもありますが、大切な違いが二つあります。一つは、風が静まったとは言われていない、ということです。つまり、イエス・キリストが来て下さったので、風と荒れた波の直中を、弟子達は通り抜けられたのです。イエス・キリストがいて下さったので、危険に取り囲まれ、脅かされていても、目的地に着くことが出来たのです。もう一つは、イエス・キリストが舟に乗られたと言われていないこと、つまり、乗られなかったということです。イエス・キリストは、荒れる湖の直中に身を置き続けられたということです。イエス・キリストが、私達の現実の中に身を置いて下さった・下さっているということです。

第10章で、羊と共にあり、羊を護る羊飼いとしてイエス・キリストは描かれますが、それが、ここにも表れているのです。神の独り子として、御自身、神であられるイエス・キリストが、そこまで私達を愛し、助けて下さるということ。そのためにいて下さるということ。――その事実があるので、私達は、あらゆるものに対しても、恐れないで生きていけるのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第4_2022年1月16日配信