一ヨハネの手紙4.16b~21 (2018.6.10)
以前教会学校の礼拝ではお話ししたことですが、現在も本屋さんの店頭には平積みとなって置かれている本で、「君たちはどう生きるか」があります。これを書いたのは吉野源三郎という人で、戦前に書かれた書物です。大人の人はご存じだと思いますが、毎年選ばれるベスト50冊とか百冊の中には必ず入る1冊です。そのようにずっとコンスタントに読まれてきた本で、今でも岩波文庫のコーナーには青色の帯で常時置かれています。
昨年わたしの2人の孫が少年へと成長し、いよいよ中学生になるということでしたので、この本をプレゼントしました。本の主人公が中学生(旧制)であり、そうした少年期にある者にはふさわしいと思ったからです。ところがプレゼントしたその後、この本が漫画として販売さえるようになりました。そして一挙に売れ始め、今では200万部とも言われるくらいのベストセラーとなっています。もっとも売れているのは漫画のほうで、昔ながらの文庫本はそれほどでもないようです。
主人公は15歳の中学生コペル君です。彼の本名は本田潤一というのですが、宇宙の不思議に興味をもっていたことから、彼の叔父さんがコペルニクスというあだ名をつけました。そこから短くコペル君となり、以来家でも友だちからもコペル君と呼ばれるようになりました。この本は戦前に書かれたもので、現在のわたしたちの社会とはずいぶん違う面がありますけれど、それでも貧困と格差、それにいじめなど共通するところがあり、それが今でも訴えているのではないかと思います。
わたしにとって特に印象深かった箇所は、いじめに関するところでした。コペル君には小学生時代からの友だちが3人いました。その1人が上級生から生意気だと常々目をつけられていました。いよいよそうした危険が具体的になろうとしていたとき、この4人は互いに守り合おうと指切りをして誓いました。ある雪の降ったときでした。放課後に校庭で生徒たちが雪遊びをしていました。遊びにあまりに夢中になっていたことにより、いじわるな上級生の作った雪人形の腕を取ってしまいました。普段から目をつけられていたのですから大変です。早速上級生たちが言いがかりをつけてきました。多くの生徒の前で、コペル君の友だちの1人北見君がつるし上げられます。そこで約束どおり他の2人の友だちも、北見君をかばいました。コペル君は少し遅れてこの現場に来たのですが、しかし上級生が怖くなって、この仲間に入りそびれてしまいました。手に持っていた雪の球も自分の後ろに落としてしまいます。だれもそれには気づきません。ただコペル君だけが知っていることでした。このようにして3人の友だちが叩かかれたり雪玉を投げられたりして、さんざんいじめられました。そして泣きながら3人は校庭を後にするのでした。コペル君は友だちを守ることも、友だちにごめんなさいということもできず、1人校庭に取り残されました。
コペル君はそうした卑怯な自分に悲しみ、家に閉じこもってしまいました。そしてそのまま病気になり、とうとう半月も学校を休むことになりました。肺炎寸前の病気も苦しかったのですが、それ以上に友だちを裏切ったことがコペル君の苦しみとなりました。もうこのまま死んでしまえばいいとも思いました。どうして再び学校へ行き、あの友だちに顔を合わせることができるだろうか。それでもこの間、彼の叔父さんとお母さんの深い愛情とアドバイスにより、コペル君は友達に手紙を書きました。自分をごまかすことなく率直な謝罪の手紙を書いたのです。その後、3人の友だちは自宅へ見舞に来て、もうそんなことは気にしていないといようなことを言ってくれました。わたしの孫たちもこれからさまざまな喜びやつらい経験を重ねながら成長していくのだろうと思い、この本をプレゼントしたのです。漫画なら読むかもしれませんが、果たして文字ばかりの文庫本は読んでくれるだろうか心配ではありますが。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と今日ヨハネは語りました。恐れには大きく2つあります。1つは神への恐れです。そしてもう1つは人への恐れです。人間が本当に恐れなくてはならないのは、この神に対してではないでしょうか。それは崇める、信じるといってもよいと思います。そのとき人はこの世のことを恐れなくなります。他のこと、他の人間を恐れなくなるのです。反対に神を恐れることを知らない人はどうでしょうか。その人はこの世のことしか知りませんので、この世のことがすべてです。そのため人を恐れたり、この世のことを過剰に意識したりして世に流されていきます。
「愛には恐れがない」。もちろんその愛は、わたしから出たもの、わたしたち人間から生まれたものではありません。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とある通りです。神の愛、それはイエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架にかかってくださったことによって示されました。神を信じることなく、神を崇めることもなく、むしろ神の敵でさえあった傲慢なわたしたちのために、キリストは自らの命をささげてまでわたしたちを愛してくださったのです。このキリストの愛という泉から水を汲まない限り、人間の愛は行き詰ってしまいます。自分がまず愛するのではありません。そのように自分が与えるとばかり思っている愛は、奥深いところではエゴイズムに満ちたものでしかありません。そうではなくまずわたしたちは神に愛された者なのです。神に愛されている自分を知ること、そこから始めることによって、人を愛することができるのではないでしょうか。
「完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」。愛の欠如した家庭、あっても自分中心の愛しか知らない家族、そこにはいつも緊張があり、恐れがあります。昨今、いたましい家庭内暴力、ハラスメントの事件を耳にします。もちろん被害者は弱い立場の子どもです。しかし大人、親にも余裕がなくなっているのかもしれません。確かにわたしたちが人を、隣人を愛することは重要です。しかしその前に、罪と弱さを抱えた自分が愛されている者であること、そのような自分でも神に愛されていること、そうした自分を知ることが必要ではないでしょうか。そのとき人は初めて主体的に愛する者となり、愛情の深い家庭を築くことができるのです。