エレミヤ書33.14~16 (2018.12.2)
いよいよ今年も12月に入りました。世間では年の瀬、師走ということで、何かとあわただしい雰囲気に包まれています。わたしたちもそのような時の中にありますが、そうした時と共に、またそれ以上に貴重な時をこれから歩んでいくことになります。それがアドベントの時です。今日、アドベントクランツのローソクに灯が1本灯されました。これからクリスマスまでの4週間、1本ずつ光を灯しながら、心の備えをしていきます。そして4本灯されるとき、イエスの誕生であるクリスマスとなります。
このようにわたしたちはイエスの誕生前の4週間をアドベントとして送っていくわけですが、見方を変えればこれら1本の灯と次の1本のローソクの間には、決して1週間(7日間)で捉えることのできない、もっと大きく長い時が横たわっていると考えることもできます。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とありますように(2ペトロ3.8)、これら1本ずつのローソクの灯の間には千年とまではいかなくとも、数百年の待望の歴史が込められていると受け取ってもよいのではないでしょうか。それが旧約聖書の歴史であり、救い主イエス・キリストの誕生を指し示した預言者の働きでもあります。旧約の人々は、さまざまな時代、環境の中にあって、そしてそれぞれの人生において、ただ一点、メシアであるイエス・キリストを指し示してきたのでした。
その一人が今日の聖書に出てくる預言者エレミヤでした。彼もまたイエス・キリストを待ち望む、そしてそれを指し示す1本のローソクの灯として神から遣わされたのでした。エレミヤが活動した時代は、紀元前6世紀のユダにおいてです。南北に分裂していたイスラエルの国で、この時代すでに北王国は滅亡していました。そして今南王国ユダも新バビロニア帝国の侵攻を受け、風前の灯でした。実際ほどなくしてユダもまた陥落し、多くの人々がバビロンへ連れていかれます。いわゆる「バビロン捕囚(The Exile)」の始まりです。
このときエレミヤはどこにいたのか。今日の聖書33章の1節によれば、彼は獄舎に拘留されていました。なぜそんなところにいたのでしょうか。それはエレミヤが王ゼデキヤを初めとした為政者や多くの人々に対し、耳障りな預言をしたからでした。人間的な意味で、彼らの耳に心地よい言葉を語ったのではなく、反対に主の言葉に聞き従っていない彼らの姿勢を厳しく糾弾したのでした。この国難にあって誰もが動揺し、心を取り乱していたゆえか、そうしたエレミヤの預言をまともに受け入れることのできる人はほとんどいませんでした。むしろ神に敵対する者として彼を見たのでした。そのため反逆者というような扱いを受け、王の宮殿にある獄舎に拘留されていたのです。
その獄舎から語られたのが、今日の言葉です。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。ここ14、15、16節には、三つの言葉が並んで語られています。しかも各節の頭にはすべて「その日、その時」が来ています。14節もヘブライ語原文では、「その日が来る、と主は言われる」が初めに来ています。他の2節、「その日、その時」、「その日には」から始まるのは原文通りです。もちろんその日、その時が幾つもあるというのではなく、これらは聖書特有の並行法ですから意味は同じです。「見よ、その日が来る。わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が」。その「恵みの約束」とは何か。次の15節、「わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。さらに「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」となります。このように御言葉が主なる神から、預言者エレミヤを通して、しかも獄中から語られたのでした。「正義の若枝」の誕生であるメシアの預言が実現したのは、それからはるか6百年も後のことになりますが、この言葉を宣べ伝えたエレミヤもまた、アドベントの1本のローソクの灯に入るのではないでしょうか。
普通は牢屋の外にいる人が、牢につながれている人を見舞い、励ますのではないでしょうか。今日では教誨師や保護司がそれに当たります。ところがその逆もあるのです。鎖につながれている者が、そうでない外の自由な人々に向かって真理を指し示し、励ますというケースです。特に信仰の世界においてはそれが顕著です。それは新約時代の使徒パウロもそうでした。彼は獄から手紙を書きました。獄中書簡と呼ばれるものです。なぜそういうことができるのでしょうか。それはエレミヤやパウロ個人的な資質、また彼らにそれに耐える体力や強い意志があったからとうことではなく、神の言葉が彼らに臨んだからでした。パウロは獄中にあってこう述べています。「この福音のためにわたしは苦しみ受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(2テモテ2.9)。
わたしたち信仰者は「それゆえに」ではなく、「それにもかかわらず」という世界に生きています。牢獄に入れられた。「それゆえに」信仰も希望も衰えたという世界ではなく、「それにもかかわらず」希望が失われることなく、むしろそこから新たな力が生まれたという世界です。こうしたことは日常生活においても言えるのではないでしょうか。年を重ねてくると、「それゆえに」それまでできたことが難しくなってきた。また病気がちにもなってきた。確かにそうした厳しい一面はあります。しかし「それゆえに」信仰も希望の力も衰えたとはなりません。信仰、希望、愛はそうした順接ではなく逆説の世界だからです。すなわち「それにもかかわらず」の世界なのであり、「それにもかかわらず」信仰が衰えることなく、命の輝きも曇ることはありません。なぜなら「神の言葉はつながれていない」からです。わたしたちの環境がどのようなものであっても、それに左右されることなく、むしろそれを超えて神の言葉が臨んでいるからです。たとえ牢獄であっても。使徒パウロは自らを苦しめる窮乏や行き詰まりや弱さの中で、キリストの声を聞き次のように告白しました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ…だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12.9-10)。
主の約束の言葉は、高い山の上からも、死の陰の谷からも、多くの預言者によって語られてきました。じめじめとした獄中から語ったエレミヤも、そうしたアドベントの灯となったひとりです。この世界はまだ夜明け前のような闇に依然として包まれていますが、それでも曙の光が少しずつ増していく、そのような夜明け前でもあります。エレミヤが指し示した救い主誕生の約束が、アドベントの灯となってわたしたちにこの朝照らされました。一足早くその光に気づいた教会、そこにつながるわたしたちは、これから4週間主の御言葉に支えられながら、希望と喜びをもってクリスマスを待ち望みながら歩んでいきたいと思います。