マルコによる福音書1.9~11 (2018.1.14)

イエスの伝道を綴った福音書は4つあります。どうして一人の生涯を語るのに4つも必要なのだろうか。特に最初の3つは共観福音書と言われていますように、同じような記事が重なっているだけに余計そうした疑問も生まれるかもしれません。実際歴史上にも、そうした思いを抱く人々もいました。しかし4福音書にはそれぞれ固有の味わいがあるものです。その一つに書き出しがあります。イエスの福音はどこから始まるのか。旧約聖書の預言からか。クリスマスという誕生からか。イエスの受洗からか。また十字架と復活を経てからか。たとえばヨハネ福音書は先在のキリスト、すなわち天地創造から始めています。またマタイやルカ福音書はクリスマスから、もっともそれは長い旧約の預言を含んでいますが、いずれにせよイエスの誕生から福音を始めています。それに対して今日開いていますマルコによる福音書はイエスの受洗から福音を始めていると言ってよいと思います。冒頭の一節では「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、道備えをしたバプテスマのヨハネを経て、今日の箇所のとおりイエスの洗礼が語られているからです。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。洗礼、それはカタカナではバプテスマと言い、ギリシア語そのままを用いています。水で洗う、水に浸す、これは旧約時代にも水で清めるといったような意味で行われていましたが、それが洗礼として新しい意味を帯びるようになったのは新約においてでした。特にパウロによってその内容は深化され、ローマ書にあるように人は洗礼の水によってキリストと共に古い罪の自分が死に、新しい復活の命に生きると語られます(6章)。わたしたちが受けたものは、そうした洗礼です。

その洗礼は、また与えられるもの、授けられるものでもあります。イエスは「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とあります。この「受けられた」という言葉、日本語では敬語なのか受身形なのか区別がつきにくく分かりにくいのですが(この訳は両方を含んでいるのかもしれません)、わたしは敬語よりも受動態であることを強調しておきたいと思います。洗礼とは授けられるものなのです。それは何を意味するかと言いますと、自分で自分に洗礼を授けること、自己洗礼というのはないということです。今、季節は寒の入りを迎え、厳しい寒さが続いています。特に北国では毎年のことながら、寒さだけでなく雪との戦いの日々でもあります。このような時期に日本では寒行があちこちで行われます。裸になって滝に打たれたり水に入ったりして、修行を行うものです。これはインドの沐浴などとも共通するのではないかと思います。もちろんそうした行は尊いものであり、誰にでもできることではありませんが、聖書における洗礼は自分で自分を洗い清める自己洗礼はありません。それは与えられるもの、授けられるもの、受身形でしか成立しないものなのです。

それならば誰が授けるのか、その執行者は誰か。それは神から遣わされた者(任職された者)、究極的には神ご自身によってもたらされるものです。教会では牧師が執行者です。もちろん執行するのはわたしですが、洗礼の有効の源はキリストであることは言うまでもありません。わたしは1986年に按手礼を受けました。今でこそ薄くなったこの頭の上に、多くの先輩牧師の手が置かれ、「み言葉を宣べ伝えよ、聖霊を受けよ」と祈られました。その先輩たちはまたその前の牧師から手を置かれています。それを遡ればすぐに明治初年に行き着き、さらには宣教師を送り出したヨーロッパ、アメリカの教会の歴史、そこに仕えた牧師たち、するとそれは宗教改革時代にまで遡ることができるのではないでしょうか。そのように次々の頭に手が置かれ、聖霊を受けよとの祈りもとに現在の執行者も置かれているのです。またわたしはかつて教区議長を6年務めてきましたが、そのときには今度は按手礼を執行する立場ともなりました。正教師試験に合格するなど、正規の手続きを経てこれから牧師になる先生方の頭の上に手を置いてきたのです。そこでもまた聖霊を受けよとの祈りのもと厳粛な任職式を行ってきました。

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。聖霊が鳩のように降って来た。それに基づき、鳩が聖霊のシンボルとして描かれるようになりました(わたしたちの教会にもそれがあります)。ペンテコステの聖霊は炎として語られていますが、そうして力強さも加えて鳩とか炎が聖霊のシンボルとなっていくのです。そのときでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が、天から聞こえました。この言葉には旧約のさまざまな信仰が込められています。まず何よりもイエスが神の子である(マルコ冒頭のように)との預言、また同時にイエスは神の僕、特に苦難の僕ともなることを指し示していると思います。

それはイエスの洗礼そのものからも言えます。なぜイエスは洗礼を受けられたのでしょうか。洗礼は罪の自分がイエス・キリストと共に葬られ、キリストの復活によって新しい命に生きるものであると先程も述べました。ならばイエスには洗礼によって洗い清められなければならない罪はあったのでしょうか。イエスには洗礼が必要なのでしょうか。これはなかなか神学的な重い問いでもあります。確かにそういう意味では、イエスには洗礼は必要ないでしょう。それゆえマタイ福音書を読みますと、バプテスマのヨハネがイエスの洗礼を思いとどまらせようとしたのはうなずけます。それでもあえて、イエスが洗礼を受けられたのでした。それはイエスが罪人の一人として数えられることを甘んじて受けられたということではないでしょうか。地上の生涯の終わりのところで、二人の強盗の間に挟まれて十字架につけられました。それもまたこの延長上にあると言えます。するとこのヨルダン川でイエスが洗礼を受けられた、そこで洗い清められ、そこで赦された罪というものは、実はわたしたちの罪であり、一人ひとりが人生で負っているさまざまな重荷ではないでしょうか。神の子イエス・キリストは、そのように人々の苦難を背負う僕でもあったのです。

2018年第2回目の主日礼拝を守りました。この1年の歩みがどのような方向に進もうとも、わたしたちを悩ます多くの罪と弱さを担ってくださる主イエス・キリストが、いつも共にいてくださることを信じて歩んでいきたいと思います。イエスの洗礼はそれをも示しているのです。