マタイによる福音書2.1~12 (2019.12.22)

これまで3週間にわたってローソクに1本ずつ光をともしながら、アドベントの歩みをしてきました。今日はここに4本目のローソクに灯火がともりました。今日はクリスマスです。わたしたちはここ野方町教会でクリスマスを迎えました。また全国、全世界の教会でも、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いしていることでしょう。待降節の歩みにおいて、わたしたちは祈り、悔い改めながら、主キリストをお迎えできるように備えてきました。昨日は特に最後の準備として、教会には多くの仲間たちが集いいろいろ準備をいたしました。それらはすべて今日のためであり、さまざまな活動を通して、救い主の誕生を共に喜び共に感謝するためのものでした。何よりも嬉しいことは、このクリスマス礼拝で2人の友が洗礼を受けられることです。このことがいっそうクリスマスを豊かなものにしてくれます。

この朝、わたしたちは今から2千年前に同じくイエスの誕生をお祝いした東方の博士たちの足跡を辿たどることによって、そこに込められたクリスマスの喜びについて思い巡らしたいと思っています。ヘロデ大王がユダヤの地方を支配している時代に、イエスはお生まれになりました。その誕生を遠く東の彼方から見ていた人々がいました。占星術の学者たち(博士、賢者)です。そこで彼らは星に導かれて、はるばるユダヤの地へとやってきました。彼らが初めに訪れたのは、ユダヤの都エルサレム、しかもその中の中心であるヘロデ王が住む宮殿でした。それはそうでしょう。ユダヤの王がお生まれになった知らせを受けたのですから、都ではなく、その他の辺境の地、田舎へ行くということは常識的にはありえないからです。ちょうど日本に外国からのお客さんが来たならば、最初に訪れるのは東京、しかも皇居とか首相官邸であるようにです。

学者たちはヘロデ王に向かって言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。この言葉を聞いたヘロデ王の反応が次に書かれています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」。なぜ一人の新しい命の誕生が、しかもユダヤ人の王として生まれたというまことにめでたい誕生が、喜びでなく不安を引き起こしたのでしょうか。これは次の「エルサレムの人々も皆、同様であった」との言葉、つまり住民も不安を抱いたことから推測しますと、原因はいろいろ考えられます。その中で第一に挙げられるのは、やはりヘロデが現在ユダヤの王であったからでしょう。その王に向かって学者たちが新たな王の誕生を告げたのですから、ヘロデは自らの地位の危うさを感じ取ったにちがいありません。彼はユダヤの王となるまでには、ずいぶんあくどいことをしてきました。それゆえいつ自分も同じことで王の地位を追いやられるか、人一倍敏感であったことと思われます。だからヘロデ王は学者たちとは違った意味で、新たに誕生した王の居場所を突き止めようとしました。その場所とはベツレヘムでした。そこでヘロデは博士たちに言いました。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。これは偽りです。彼は自分の王の地位を守るために、幼子を拝む(礼拝する)のではなく排斥はいせきしようとしていたのでした。

他方、博士たちは星に導かれてひたすら旅を続けました。ユダヤの王が都エルサレムで生まれなくとも、そして都に比べれば取るに足りない田舎町ベツレヘムを指し示されても、さらに希望と忍耐の長い旅を続けるのでした。最初はこのような小さな村に向かうことに躊躇ちゅうちょしたかもしれません。それでも信仰の試練を経た彼らは、もはやそうした外見上の貧しさ、みすぼらしさを軽蔑けいべつすることはありませんでした。しかも彼らが導かれた幼子のいる場所は実に貧弱なものでした。彼らがマリアとヨセフ、そして幼子のいる場所に着いたときのことを聖書はこのように記しています。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。だがここは家と呼ばれるにはあまりにも粗末でした。並行記事のルカ福音書によれば、客間は人がいっぱいだったため、彼らは家畜小屋をあてがわれたとあります。つまりここで家とあるのは一般に人が住む家のことではなく、おそらくのきの傾いたようなみすぼらしい家畜小屋のことだったのです。それでも博士たちにとっては、そうした目に見えることは問題とはなりませんでした。彼らは信仰によって歩んでいたからです。「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にすることによって弁護することはない」とある通りです(イザヤ11.3)。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。

今日の宣教題は「尊い贈り物」としました。ここには二つの意味が含まれています。もちろんここでいう贈り物(ギフト)とは、直接には博士たちが幼子イエスに献げた黄金、乳香、没薬もつやくのことです。彼らは最上の贈り物をしたのでした。つまらないもの、どうでもよいものではなく、彼らははるばる携えてきた宝の箱から開けた尊いギフトを幼子に献げたのです。そして幼子を礼拝しました。「尊い贈り物」にはもう一つの意味があります。それは博士たちの尊い贈り物を超えて、またその贈り物に先立ってわたしたちに与えられたものです。それは神がその独り子をこの世にお送りくださったという意味での贈りもの、プレゼントです。今日はその幼子イエス・キリストが誕生したクリスマスです。東方の博士たちが長い忍耐と試練の旅を経て、ついに喜びに辿たどりついたように、わたしたち一人ひとりにもその喜びと恵みが与えられました。どのようなつらい生涯であっても、どのような病や悩みの中にあっても、わたしたちにはそれらを包んで余りある素晴らしい神からの贈りもの、すなわち救い主イエス・キリストが与えられたのです。その日、クリスマスを今日わたしたちは迎えました。

教会員の方は以下のリンクからライブ録画をご覧になれます。
https://nogatamachi.com/降誕節第1主日礼拝クリスマス_2019年12月22日/