イザヤ書11.1~10 (2019.12.29) 

野方町教会のクリスマスは、先週盛会のうちに終えることができました。今年はカレンダーの関係で22日に集会が集中しました。朝の礼拝から始まり、夕方の教会学校クリスマスまで丸一日のクリスマスです。そのように長い一日で疲れましたが、それ以上に満たされた思いが大きかったと思います(胃袋も二回の愛餐会で十分に満たされたが)。そして1日おいてイブ讃美礼拝&コンサートがありました。これもまた恵まれた集会となり、地域の人々を含めた出席者と共にクリスマスの喜びを分かち合うことができました。改めて皆さまの奉仕に感謝いたします。

121日から始まった待降節の歩みが終わり、今日から降誕節に入りました。降誕節第1主日です。待降節のことをアドベントとも言います。これはラテン語から来た言葉で、到来という意味です。これが教会ではキリストの到来を意味するようになりました。しかもその到来には二つの意味が示されています。一つは先週のクリスマスに誕生したイエス・キリストの到来です。アドベントが語るもう一つの到来は、キリストの再臨です。先週のコンサートでヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を歌いました。その中に「王の王、主の主」と高らかに歌う箇所がありました(1テモテ6.15)。これは再臨のキリストを示しています。「使徒信条」で言えば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」に相当する箇所です。そのようにアドベントに二つの到来が意味されているのを端的に表しているのが讃美歌21の編集です。これは前にもお話ししましたが、従来の1954年版の讃美歌では、待降節が一番最初に来て、キリストの生涯の最後のところに(審判の前)再臨の項目が置かれています。それに対して讃美歌21では、最初のアドベントの項目に待降と再臨が一緒に記されています。つまりクリスマスにおけるキリストの誕生と、王の王、主の主としてやがて来られるキリストを待ち望むこと、この二つの到来は別々の事柄でありながら、同時に限りなく一つに近く、またまったく一つのことでもあるというわけです。それがアドベントです。

ここイザヤ書11章はクリスマスの預言として読まれてきました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」。エッサイとはダビデの父の名前です。どうしてダビデの名前を出さずに、父親の名前から始めたのでしょうか。ダビデは旧約時代の偉大な王でした。それは政治的な点だけでなく、信仰者としても立派な人であり、後々までユダヤでは崇められてきました。それゆで新約の時代に入っても、来たるべき救い主はダビデのような人と信じられてきました。福音書ではイエスのことを「ダビデの子よ」と呼んでいます。つまり「ダビデの子」とはメシアの称号の一つだったのです。それほどまでにダビデは立派な人ではありましたが、そこには限界もありました。彼はさまざまな罪を犯しました。またダビデによって建てられた王国、そこに君臨する王たちも罪の中にありました。最後にはダビデによる王国は滅んでいくのです。預言者イザヤがここで「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」と語るのは、もう一度ダビデの前の父親から始めて、新しいダビデ、第二のダビデを指し示したのでした。それが「ダビデの子」キリストとなっていくのです。

何よりもこの新しい王は霊の人でした。「その上に主の霊がとどまる」とある通りです。それはどのような霊の人なのか。その性格が三つ示されています。「知恵と知識の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」。知識にすぐれているだけではありません。それを行動につなげることができました。さらに信仰の人でもあります。これが新しいダビデ、すなわちキリストの姿なのです。「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない」。外見、人のうわさなどに支配されないということでしょう。確かに最初のダビデが主に選ばれたときにも、同じようなことが言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな……人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と語られています(サムエル上16.7)。そして主の裁き、弁護は常にこの地の弱い人々、貧しい人々に向けられます。これも先週のコンサートの話ですが、二見忍さんが高田三郎の「ちいさなひとびとの」を歌ってくださいました。それはマタイ福音書25章にある、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」から取られたものでした。この飢えている人、病気の人などに代表される小さな人々、そこに主の目が向けられているのです。まさに「正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる」とのまとめは、新しいキリストの姿をよく表したものなのです。

飼い葉桶でお生まれになった神の独り子イエス・キリストは、同時に終末の完成をもたらす方でもありました。「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す」から始まる、一見牧歌的でもあり童話的でもある言葉は、キリストが万物を支配し、この地に、人間社会に平和をもたらすだけでなく、自然界全体に平和の秩序を回復されることを示しています。それは創世記12章に基づいた新しい創造と和解の世界です。「わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる」とはそのことを述べたものです(9節)。

クリスマスにおいて救い主メシアの第一の到来は実現しました。わたしたちの罪は解き放たれ、さまざまな重荷は主によって取り除かれました。しかし第二のまったき完成者としての到来は、クリスマスにおいて限りなく一つのことではありますが、同時にいまだ待ち望むという段階でもあります。「主よ、来りませ」という段階でもあるのです。わたしたちはこの世に肉となって現れてくださった主イエス・キリストと共に歩みながら、すでに救いは実現したという確信と、まで途上にあって待ち望んでいるという希望の間を、そのほとんど重なっているような細い道の間を歩んでいくのです。2019年の52回にわたる礼拝は本日で終わり、礼拝を中心とした旅はあと2日を残すだけとなりました。次回の礼拝は2020年となります。来年の世界は、社会はどのようになっていくのでしょうか。またわたしたち一人ひとりの生活もいろいろ変化していくに違いありません。健康のこと、経済的なこと、また家族のこと、あるいは仕事や学業においてです。旧約詩編に「千年といえども御目(主にあっては)昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」という言葉があります(90.4)。言い換えれば、昨日が今日へと移る夜の一時、すなわちそのような一日は主にあっては千年を生きるに相当することでもあるのです。どのようなときにも、いつもわたしたち一人ひとりと共にいてくださる救い主イエス・キリストを心から信じつつ、与えられた一歩一歩を歩んでいきたいと思います。

教会員の方は以下のリンクからライブ録画をご覧になれます。
https://nogatamachi.com/降誕節第1主日礼拝_20191229/