ガラテヤの信徒への手紙4.1~7 (2018.9.9) 

古代キリスト教会から今日に至るまで、聖書の基本的な祈りや信条は講解されてきました。モーセの「十戒」、「使徒信条」、そして今日から取り上げる「主の祈り」がその代表的なもので、これは信仰入門教育(信仰問答)の中でも必ず取り上げられています。この春の教会総会でこうした信仰の基本的なものを取り上げてほしいとの要望があり、わたしもかねがねどこかの段階でこれらの講解説教をしたいと考えていました。そして今ついに実現することになりました。

今回は「主の祈り」の講解です。この祈りは主イエスがわたしたちに教えてくださったもので、マタイとルカ福音書に記されています。そして以来教会では毎週の礼拝で共に祈っています。ここには最初の呼びかけ、すなわち今日取り上げる「天にましますわれらの父よ」と最後の「国とちからと栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」の頌栄の間には、全部で6つの祈り(祈願)があります。従ってこれらを一つひとつ解説していきますと、全部で8週間かかることになります。昨日わたしは「主の祈り」を唱えるのにどれくらいの時間がかかっているか改めて測ってみました。30秒です。2千年、3千年の歴史の中で信仰者たちが築き上げてきた祈りの言葉、それがわずか30秒で終わってしまうのですが、そこでわたしたちが問い、また問われなくてはならないのは、いったい「主の祈り」において何を祈っているのだろか、何を願っているのかを知っているのだろうかということです。一般社会で祈りという場合、そのほとんどは願い事と同じです。初詣での祈り、お寺での祈願、そこでなされる祈りは、まず自分や自分の家族に関する願い事、御利益的な願いではないでしょうか。しかし「主の祈り」はそうではありません。もちろん願い事もあります。けれどもそれだけではなく、主なる神への賛美、感謝があります。悔い改めがあります。執り成しもあります。そのように信仰者の祈りとは、実に多岐にわたっており、それら全体を指して祈りと呼んでいるのが特徴です。

「天にましますわれらの父よ」。これが第一の祈りの言葉であり、呼びかけです。ここで神を父と呼んでいます。けれどもこれは決して自明のことではありません。旧約聖書を読んでいますと、そこに出てくる神は近づきがたい方として出てきます。たとえばモーセがシナイ山で「十戒」を与えられたところでは次のように描写されています。神がモーセに言われます。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エジプト33.21以降)。これは神の顔を人間は見ることができない。見た者は死ぬと言われていたように、それほどまでに近づきがたい神と人間の関係を示したものです。

それは神の名を呼ぶことにおいても同様です。旧約時代には主なる神というように、神とか主という言葉を用いていました。これは聖書の細かい説明になりますが、「十戒」の第三戒、「主の名をみだりに唱えてはならない」から、旧約の人々はヘブライ語で書かれている神の名(神聖四文字)をそのまま読むのではなく、別の言葉(アドーナイ)に置き換えていました。それほど徹底していたのです。ギリシア語聖書(七十人訳)でもそこは主(キュリオス)と訳していました。近年の学術的な聖書では、おそらくこのように発音されるのが神の名前ということから、ヤハウェと記しています。それほど名を呼ぶことにおいても畏れ多く近づきがたい存在であったのです。

主イエスがわたしたちに教えてくださった祈り、「天にましますわれらの父よ」、従ってこの呼び方が決して自明のことではないのがお分かりになるのではないでしょうか。神を父よと呼ぶ場合、それは明らかにそう呼ぶわたしたちは子どもであることを前提にしています。こうした呼び方は旧約時代には考えられませんでした。確かに神はイスラエルの父、われわれの父というような表現はあります。しかしそれはあくまで三人称の言い方であって、その神に向って「父よ」という言い方はまことに不謹慎、みだりに神の名を唱えるものと考えられたのでしょう。

その神をわたしたちは父と呼ぶことがゆるされている。これだけで十分に恵みであることが分かります。けれどもそれだけではありません。今日のガラテヤ書ではさらにこう語っています。「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4.5-6)。この「アッバ」という言葉は、イエスの時代の日常の言葉であるアラム語でお父さんという意味です。しかも幼い子が父親を親しく呼ぶ場合の言葉です。現代で言うならば、お父ちゃん、パパというような意味合いです。イエスも神をそう呼びました(マルコ14.36)。わたしたちは主イエスの救いによって神の子とされ、その神を父と呼ぶことができるようになったというだけではなく、さらにはイエスと同じように神を「アッバ(お父ちゃん)、父よ」と、もっと身近な関係で呼ぶことがゆるされるようになったのです。

最後にもう一点、「われらの父よ」と、「われら」という言葉を用いていることに注視したいと思います。なぜ「わたし」のではなく「われら」と複数形になっているのだろうか。それはわたしたちが父なる神に向って祈るとき、同時にわたしたちを隣り人へと向かわせられるためなのではないでしょうか。「主の祈り」を一人で祈ることもあります。それでもこれは自分一人だけの祈りではない。わたしたちの周りの人々に心を向ける、手を差し伸べる、互いに助け合う、そうした共同性へとこの祈りはわたしたちを招いていくのです。それも身近な家族、友人、教会の友という枠の中だけでなく、それを超えてこの世界の直接には知ることのない人々も、この「われら」という言葉の中には入っているのではないでしょうか。ただ一人の「父なる神」に向けられた祈りは、こうして神の家族がどこまでも広がっていくように導く課題としての祈りともなっていくのです。

「天にましますわれらの父よ」。これは「主の祈り」の単なる初めの言葉、呼びかけの祈りというだけではなく、主イエス・キリストの贖いにより神の子とされた恵みを示したものなのです。だからわたしたちははばかることなく旧約時代のような畏れ多い神を、父を呼ぶことがゆるされているのです。それゆえこの呼びかけの言葉それ自体が、すでに福音であると言ってよいと思います。そしてこの呼びかけは、わたしたちを一人ひとり孤立したままにするのではなく、「われらの父よ」と呼ぶことにより同じ一人の神を仰ぎつつ、隣り人に心を向けさせていくそうした課題をも与えているのです。一つの大きな神の家族となるためです。