使徒言行録13.44~52 (2018.8.19) 

昨日から今朝にかけて行われた夏期学校、すべて予定通りにプログラムは進行し無事終了しました。特に昨日法嶋太郎さんをリーダーとしてお招きしての活動には、教会員も幾人か参加してくださり、一緒に楽しむことができました。子どもの参加は10名余り、こうした教会の礼拝、諸活動を通して、神さまの恵みを心身共に体験できたことと思います。願わくば子どもたちの心に蒔かれた信仰の種が、体が成長していくのと同じように大きく育っていってほしいと祈ります。わたしたちにできること、またしなくてはならないことは、植物栽培にたとえるならばひたすら植え続けること、水を注ぎ続けることです。しかし成長させてくださるのは神です。後はその成長の源である神に委ねたいと思います。

この夏期学校にはわたしども家族は子ども、大人合わせて12人参加しました。北は東北の花巻から、西は大阪、さらには南の沖縄からの参加で4世代が一堂に会しました。最初はわたしたち夫婦2人で始めた伝道の歩みも、40年近くなった今ではこのような大きな家族となり、孫とも一緒に夏期学校の行事に参加できることに感慨も一入でした。金曜の夜にはこのメンバーが牧師館に泊まりました。ただそれは正確な言い方ではなく、教会の和室も利用しなければとても全員入りきることはできませんでした。それでもサザエさんの漫画ではありませんが、家がパンクするような状態に変わりはありませんでした。疲れはしましたが、楽しいひとときでした。

さて西暦47年から48年頃行われたパウロの第1回伝道旅行、その訪問地の一つでの出来事が今日の箇所に記されています。場所はここには出てきませんが、前の14節に書かれているピシディア州のアンティオキア、今のトルコの内陸部にある所です(当時はローマ帝国内)。この町には他の多くの地域同様ユダヤ人のコミュニティーがあり、礼拝、その他諸集会を行う会堂がありました。パウロはその会堂での礼拝に出席することによってキリストの福音を伝えていました。この町には安息日が3回出てきますから、少なくとも3週間滞在したということになります(14,42,44節)。今日の箇所は3回目の安息日における出来事です。

イエス・キリストの福音が新鮮で力強かったからでしょう、町の人々にはそれまで聞いたことのなかったこの救いの言葉を好意的に受け止められました。3週間たった今、ほとんど町中の人々が主の言葉を聞こうとして会堂に集まって来ました。ところがこの町に住んでいたユダヤ人たちはこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対するようになりました。この「群衆を見てひどくねたんだ」と書かれていますが、いったい何をねたんだのでしょうか。当初好意的に受け止められていたパウロの話のどこに、口汚くののしってまで反対するようなものがあったのでしょうか。

その原因と思われるパウロの説教がここには出てきませんが、第1回目の安息日におけるパウロの説教が手掛かりとなります。それは16節から41節までに書かれています。そこにはおおかた次のようなことが述べられています。神は旧約時代からイスラエルの民を選び、導かれました。また約束に従って主イエスを遣わされました。ところが人々はイエスを理解せず、彼を十字架につけてしまいました。しかしイエスは死者の中から復活いたしました。そのことを通して罪の赦しが実現し、モーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、キリストによって義とされるようになったのです。このような内容がパウロの語った説教でした。

ユダヤ人が群衆に対してねたみを起こしたのは、その終わりの部分の言葉だと思います。具体的には38節と39節の言葉、「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方(キリスト)によって義とされるのです」にあります。ユダヤ人には誤ったプライドがありました。自分たちにはモーセの律法がある。旧約以来神に選ばれた契約の民でもある。そうした自分たちと同じように、キリストを信じる者は皆救われる(義とされる)との豊かなメッセージが語られるのを聞いて、自分たちが出し抜かれたと思ったのではないでしょうか。キリストの救いによって異邦人など信じる者にも同じような恵みが与えられたのですが、そのことによって何か自分たちが粗末にされたと誤解したのです。決してユダヤ人に対する神の愛が減少したのではありません。

昨日の法嶋さんの活動の中で、伝言ゲームがありました。「愛しています」と次々伝えていくものです。最初は自分だけに向けられていたこの言葉が、さらに多くの人たちに向けられていくとき、それはみんなの喜びとなるのではなく、自分がないがしろにされたように思い、他の人をねたむような思いです。家族に2人目の子どもが生れると、上の子が下の子に嫉妬するような気持ちに似ているかもしれません。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1.16)。そのメッセージは信じる者はすべて救われるというものであって、決してユダヤ人を見下しているわけではありません。もちろん異邦人をことさら持ち上げているわけでもありません。しかしあるユダヤ人にそのように聞こえなかったのでしょう。彼らはキリストの救いを異邦人と共に喜ぶのではなく、自分たちと同様に扱われた異邦人にねたみを感じたのでした。

ユダヤ人たちは、町のおもだった人々、また「神をあがめる貴婦人たち」を扇動して、パウロたちを迫害し、この地方からの追い出しをはかりました。貴婦人たちは「神をあがめる」と書かれていますが、それは信者となってはいないまでもユダヤの礼拝に出席していた異邦人ということです。こうした信仰者たちもこの追い出しに巻き込まれていきました。そこでパウロたちは「足の塵を払い落として」この町を去って行きました。面白い動作です。これはもうこの町とは関係ないという絶縁を表したものです。

福音の言葉が語られるとき、いつも大きく二つの反応が生まれます。一つはこの追い出しをはかったユダヤ人や町のおもだった人々のような拒否反応、そこまでいかなくともほとんど聖書の言葉に心動かされない人々もそこに含まれます。他方、そこには必ず信仰者も生まれます。たとえその人数は少なくとも、蒔かれた御言葉はむなしくならず実を結びます。この町でもそうでした。この町にもそうした人々が起こされたのです。

使徒たちは自分たちが追い出されるといった迫害にあっても、勇気を失うことなく、大胆に御言葉を語り、粘り強く証しをし続けていきました。それは彼らが他ならぬ「喜びと聖霊に満たされていた」からです。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と別の箇所で使徒パウロは語っています。わたしたちにもさまざまな心配事があります。混乱するようなこと、動揺するようなこともあります。そうであってもキリストによる信仰による導きは変わることがありません。いかなる災いが襲おうとも、わたしたちの心は平和と聖霊による喜びによって満たされているのです。