マタイによる福音書25.14~30 (2018.11.11)

皆さんは星野富弘さんという方をご存じでしょうか。口に筆を加えて絵を書く方です。絵だけでなく詩も書き、花の詩画集として何冊か本を出しておられます。教会の図書としても数冊入っています。星野さんは大学を卒業してから中学校の体育の先生になりました。運動神経抜群の人でした。ところがクラブ活動を指導しているとき、転んで首の神経を傷つけるという大怪我をしてしまいました。それ以来、首から下は動かすことができなくなり、車椅子生活として今日に至っています。星野さんはわたしとほぼ同年代で、直接お会いしたことも話したこともありませんが、一人の読者として長いおつきあいとなっています。1980年代初めあたりからです。わたしは3年前に一度は訪れたいと思っていた「富弘美術館」へ行きました。群馬県の桐生市の北、みどり市という所の山あいにあります。彼の信仰から生まれた作品には心打つものが多くあり、その一つに次のようなものがあります。ナンテンの絵と共に書かれた次のような詩です。「手と足が不自由になって歩けなくなりました 土を掘ることも スキーをすることも出来なくなりました でも神様ありがとう あなたが持たせてくれた たった十グラムの筆ですが それで私は花を咲かせたり 雪を降らせたり出来るのです 神様ほんとうにありがとう」。

イエスさまは天の国について、こんなたとえを話されました。ある人が長い旅行に出かけるとき、自分の財産を僕たちに預けました。それぞれの力に応じて、ある人には5タラントン、別の人には2タラントン、もう1人には1タラントンというお金をです。タラントンというのは聖書の時代のお金です。5タラントン預けられた人、この人が一番大金を預ったのですが、彼は早速これで商売をし、ほかに5タラントンもうけました。2倍にしたということですね。次の2タラントンの人も同じように商売をし、他に2タラントンもうけました。やはり2倍です。3番目の1タラントン預った人、この人はどうしたかと言いますと、彼は土に穴を掘ってそこにこのお金を隠しておいたのでした。

長い月日が経ってから、お金を預けた主人が帰ってきました。そこで僕たちを呼んで、お金の清算を始めました。最初に5タラントン預けられた人が前に出ました。「御主人様、5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに5タラントンもうけました」。すると主人は言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。次に2タラントンの者が前に出ました。「御主人様、2タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに2タラントンもうけました」。すると主人は前の人とまったく同じ言葉で喜びました。最後の1タラントンの人、つまり土に穴を掘って隠しておいた人ですが、この人が主人の前に出たとき、主人は「怠け者の悪い僕だ」と言って大変怒りました。そして彼に預けた1タラントンを取り上げてしまいました。

タラントン、これは現代のタレントという言葉になっています。才能とか能力といった意味ですが、特にこの言葉はテレビに出てくるタレントという意味で使われています。歌がうまい、演劇がうまいという、そういう能力があるということでしょう。しかし誰にも能力とか才能はあるのであって、それがない人はひとりもいません。それは歌を歌うだけでなく、勉強やスポーツの才能があります。それもいろいろな学科やスポーツの種類があるでしょう。それだけではありません。人の話をよく聞くことのできる人、人にやさしくできる人、これもまた才能です。だからテレビに出なくても、わたしたちすべての人はタレント(何らかのタレントを持った人)なのです。

このような何らかの才能、タレントにおいて、イエスさまは3つの大切なことを語られました。1つは能力とか才能というものは神さまから預かったものだということです。誰にも生まれつき得意なもの(タレント)があるのではないでしょうか。わたしはスポーツの中で特に球技が好きでした。中学生のときには野球部に属していました。ショートでキャプテンもしていたのですよ。想像もできないでしょう。生まれつき絵の上手な人もいるでしょう。あるいは目立たないことかもしれませんが、病気の人や悲しんでいる人にいつも優しく声をかけることのできる人もいます。これもまたその人に与えられた賜物です。それらはいずれも神さまから預かったものなのです。だから自分のタレントを人と比べて自慢したり、落ち込んだりすることは間違っているのです。

2つめはその賜物は使わなくてならないということです。それが聖書では商売をしたということであり、2倍にしてもうけたということでもあります。わたしたちには誰ひとり例外なく何らかの賜物、能力が与えられています。ただそのままにしておくのではなく、用いなくてはなりません。せっかく与えられたものを使わずにいる、そういうのを宝の持ち腐れといいます。3番目の人がそうでした。彼は自分の賜物を使わず、穴を掘って隠しておいたのでした。今でいえばタンスの中にしまったまま、倉庫に眠ったままということでしょうか。どうしてこの人は自分の能力をしまったままにしておいたのでしょうか。人と比べてあまりにも小さなことしかできないから、恥ずかしかったのでしょうか。確かに人と比べればその働きには違いがあります。大きさも違うでしょう。子どもと大人では力が違います。元気な若者と高齢者では働きの大きさが違うでしょう。何らかの障碍を抱えて生きている人と健康は人では仕事量も違います。それが5タラントや1タラントンという数字の違いに表されているのかもしれません。けれども働きの大きさ、量という面では違うかもしれませんが、5タラントン預った人と2タラントン預った人は、同じ2倍にしたという点では変わりありません。自分に与えられて賜物を自分なりに精一杯用いたことにおいては同じなのです。大切にするということは使わないでしまっておくことではなく、使い切ることなのです。

だから神さまは同じ言葉を最初の2人に語ったのでした。それが3つめです。神さまの言葉はこうでした。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。これが5タラントンと2タラントンの者にかけられた言葉です。11句、まったく一緒です。「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。わたしたちの能力、働きは小さなものかもしれません。けれどもたとえ人と比べていかに小さなものであっとしても、それが恥ずかしいことではありません。腐ることでもないでしょう。まさにそうした与えられた賜物を忠実に生かして用いるとき、天の国ではいっそう多くのものが神さまから任せられるのではないでしょうか。星野富弘さんもそのようにして与えられたタレントを生かして用いながら現在を生きているのです。