マルコ8.27~9.1 (2018.3.4)

教会学校では毎年のことですが、受難節には消火礼拝を行っています。クリスマス前のアドベントとは逆に、ローソクの光を1本ずつ消していく礼拝です。214日の「灰の水曜日」から受難節に入り、最後の棕梠(しゅろ)の主日まで6回主日礼拝があります。6本のローソクにあらかじめ光をともしておいて、毎週1本ずつ消していきます。すべてのローソクの光が消えてしまうのが、最後の主日(棕梠の主日)となるわけです。このようなローソクの光を消すという象徴的な行為を通して、イエスの受難の苦しみとわたしたち人間の罪を思い浮かべようとするものです。これに関しては野方町教会のホームページにも、先週の礼拝の様子が写真で載せられていました。

主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方の村々に出かけていたときのことです。その道すがら、イエスは弟子たちに尋ねられました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤ』だと言う人も、『預言者の一人だ』という人もいます」。洗礼者ヨハネはイエスと同時代の預言者ですが、いずれにせよこれらの偉大な預言者は終末時に世の中を整える人物として、再び現れることを期待されていた人々でした。三番目の「預言者の一人」とは、モーセのような預言者だと言われています(申命記18.15)。世間ではイエスのことを、そうした優れた預言者の再来だと言っていますと弟子たちは答えたのでした。

すると次にイエスは弟子たち自身にお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。世間の評判ではなく、あなたがた自身はわたしのことをどう思っているかということであり、それは信仰告白に関する問いかけでもあるといえます。そこでペトロが答えました。おそらく他の弟子たちを代表したのでしょう。「あなたは、メシアです」。メシア、これは「油注がれた者」というヘブライ語で、旧約以来、特に祭司や王に与えられた神聖な称号でした。ギリシア語ではキリストと言います。今、旧約以来待ち望んでいたそのメシアが、イエスの出現において実現したというものでした。

それからのことです。イエスはご自身が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められました。「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」とあります。すると今度もペトロです。彼はイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。それを受けたイエス、今度はそのペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスの弟子の第一人者と自他共に認めるペトロは、自分のことをサタン呼ばわりされてさぞ、驚いたことでしょう。自分はイエスをメシアと信じている。そのイエスが苦しみを受け殺されると言われたときには、メシアにそんなことがあってはならないと心から思ってイエスをいさめたつもりなのに、「お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」となぜ叱責されたのだろうか。人間でなく、心から神のこと、イエスのことを思って言ったつもりだったのに。イエスがペトロを「叱った」とありますが(33節)、ペトロがイエスを「いさめた」も同じ言葉です。どちらも「叱りつけた」ということです。自分の師であるイエスに対して失礼かもしれませんが、「サタン、引き下がれ」と言われたイエスと同じ激しさをもって、ペトロはイエスが語るメシアと十字架の死の関係を拒否し、それゆえにペトロもまたイエスを叱りつけたのでした。

先日わたしはアメリカのオバマ前大統領の本「合衆国の再生」を読みました。さすがに大統領を2期務めただけに、立派な考え、生き方をしておられると思いました。特に「家庭と生活」についての項目では、謙虚さと優しさにあふれていてとても教えられました。その他宗教、人種問題にも触れていますが、その中で気になった言葉がありました。「下院の黒人議員連盟のほとんどのメンバーはイエス・キリストは人間の罪をあがなうために死んだと信じている」。これは翻訳ですし、彼は政治家ですから今一つ前後関係がよく分からない面もありますが、この文章だけを読めば、他の大多数の人々(少なくとも国会議員)はキリストのあがないを信じていないように受け取れます。

キリスト教の歴史の中に、理神論という一つの神学的な主張があります。17世紀あたりから主張されたもので、いわゆる理性で信仰を捉えようとする啓蒙主義的知識人の間で広まっていったものです。アメリカ建国の父祖の一人ベンジャミン・フランクリンも自ら理神論者だと「自伝」の中で述べています。彼らは創造主なる神と共に、神から与えられた知性と判断力も力強く信じていました。「使徒信条」の文脈で言えば、「我は天地の造り主、全能の神を信ず」あたりのことで、その後のキリストの贖罪の条項は削除までとは言わないにしても、トーンダウンしていくような信仰です。その方が理性では納得しやすいからです。神の存在を心から信じているという意味では今も先進国きっての信仰者の国ではありますが、「クリスチャン」の国であるとか「キリスト教」国という点ではどうかと考えさせられます。ペトロはイエスをメシアと告白しました。けれどもそのメシアには十字架の苦難と死が欠落していました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、そこから生れた告白だったのです。

そこでイエスは語られました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分を捨てる」、直訳すれば「自分を否定する」ということです。確かに人間にはすばらしい知性が備えられています。けれども人間は罪に覆われています。人間の本性は罪によって腐敗していますから、理性も曇っているのが現実のわたしたちの姿です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とイエスは言われました。救うためには失う(否定)ことが必要です。失わなくては救いを得ることができません。わたしたちの命はどんな代価を払っても買い戻すことができないほど尊いものです。しかし「神のことを思わず、人間のことを思っている」、そのような命のままでは神に喜ばれることができません。そうした自分を否定することによって、イエスとつながることから得られるまことの命に到達するのです。パウロは語りました。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5.24)。主イエス・キリストは、わたしたちのさまざまな罪と重荷を背負ってくださいました。それが十字架の苦難と死でした。そのことによってわたしたちの救い主、メシアとなってくださったのです。「あなたは、メシアです」との信仰告白が、ここにおいて生きたものになるのです。