エフェソの信徒への手紙5.21~6.4 (2018.8.5) 

先週当教会では陣内牧師をお招きし、そこでは恵まれた礼拝を守ることができたとの報告を受けています。わたしどもも皆さまのお祈りによって、無事下松教会100周年記念行事の務めを果たすことができました。土曜日にここを発ったのですが、何かわたしを追いかけるように台風も西に向きを変えてやってきました。ただ新幹線の方が速かったせいか、下松に着いた頃はまだ青空が見え、風も穏やかでした。台風がかの地に襲来したのは、日曜日の午後あたりで、教会では教区や地区からの来賓を招いての祝会を行っているときでした。そのため幾人かの出席予定者が欠席せざるを得ませんでした。それでも朝の礼拝を中心とした教会内での記念諸行事はまことに盛会で、しかも恵みに満ちた豊かな交わりとときとなりました。8年ぶりの訪問で、この間亡くなられた方もけっこうおられましたが、懐かしい兄弟姉妹との交わりを十分にわたしどもは楽しむことができました。これに関しては、今秋発行の「アーモンドの会報」に書くつもりです。

この訪問のもう一点、それは今も復旧作業の中にある豪雨災害の様子を見ることでした。新幹線の窓から目を凝らして岡山や広島あたりを見ましたが、現在ニュースで報じられているような被災害地域は別のところにありますから確認することはできません。それでも中国地方の住居は平地が少ないだけに、住宅のすぐ後ろが急峻な山という、土石流がどこで起きてもおかしくないそんな環境であることを改めて知りました。また新幹線は問題ありませんが、在来線の多くが今も不通です。新幹線の徳山駅までは問題なく行けたのですが、そこから2つ先の下松へ行く山陽本線が不通であったために、車の使用となりました。心より一日も早い復旧を祈るものでした。

さて今日8月の第1主日は平和聖日でもあります。明日の6日は広島、今週9日は長崎の原爆忌です。それだけでなく平和を考えるときには、さまざまな戦争の悲惨さにも触れることであり、それらと向き合うことなしに平和はありません。ただ平和とは何も政治家や歴史家だけの仕事、また市民運動固有のテーマということでもありません。もっと身近なわたしたちの生活からも平和が語られますし、そこから生まれるものでもありましょう。今日のエフェソ書の5章から6章にかけては、家庭における3つの関係が述べられています。1つは妻と夫、1つは親と子、3つめは奴隷と主人という関係で、今日は最初の2つの関係を取り上げました。これが家庭の一番基本的な単位であり、それは今日でも多くの点で共通しているのではないでしょうか。ただし3つめの奴隷と主人という関係が今日では存在しないように、前の2つとて当たり前のことではなく、今日ではその内容は非常に多岐にわたっているのも事実です。わたしたちは誰もが例外なしに、ある親の子どもではありますが、必ずしも誰もが子どもの親になるわけではありません。特に現代では家庭の形態、人の生き方は実にさまざまで多様性に満ちているからです。

ここで語られている家庭の在り方、それは現代人にとっては古い教えのように聞こえるかもしれません。奴隷と主人という関係が家庭を構成していたことからも分かります。しかしそうした時代的な制約を受けた部分を認めつつも、どの時代にも、永遠に真理としてわたしたちを導く教えをここから聞くことはできます。神学者カール・バルトが大著「教会教義学」の中でここを取り上げています。それは「交わりにおける自由」という大きな項目の中で、3つの関係を述べています。1つは男と女、2つめは親と子、3つめは近い者と遠い者という関係です。この3つめの近い者と遠い者とは、家庭の外の広く地域社会、民族、国家、世界という方向づけで捉えてよいと思います。その全体の関係を指してバルトは次のように述べています。「創造者なる神は、人間をご自身へと召したもうとき、またこの人間をその隣人に向かわせたもう。神の戒めは、特別にかく言う―人間は、男と女の出会いにおいて、親と子の関係において、近くの者から遠くの者への道の上で、他者を自分自己自身と共に、また他者と共に自己自身を、肯定し、尊敬し、喜び受け入れるべきである、と」。

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)、これがいかなる人間関係においても、一番基本となるものです。その上で、妻に対してはこう語ります。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。また夫に対しては、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。ここから分かりますように、妻と夫の関係を、キリストと教会との関係を基礎に、そして背景にして述べられています。教会はキリストの命によって買い取られたものです。ここに「御自分をお与えになった」とありますが(25節)、それはあの十字架の死に自らを委ねられたという術語です(「引き渡された」が直訳)。そのように夫と妻の関係も、単なる人間関係、男女関係にとどまらず、キリストの献身的な愛に基づいたものであるべきと語るのです。

家庭のもう一つの単位である親子関係においも同様です。「子供たち、主に結ばれている者として、両親に従いなさい」(6.1)。ここでも「主に結ばれている者として」という前提が基礎となっています。そしてそこで語られるのは、モーセの十戒の第五戒でした。「父と母を敬いなさい」。この旧約以来の戒めが、いつの時代でも親子関係の基本となるのは否定できません。もちろん親がいつも正しいというわけではありません。そこには人間としての限界があります。唯一正しく、絶対的なのは主なる神のみです。それゆえ親にも子どもに対する戒めが述べられます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。前の口語訳では「主の薫陶と訓戒とによって」としていました。しつけと教育というような意味です。これは両親というより、古代社会では特に父親の役目であったから「父親たち」と呼びかけられています。

ここが一番身近な人間関係が繰り広げられる場所であり、自分の最も近い隣人のいる場所です。いくら社会に向かって声高に平和を叫んでも(もちろんそうした面も必要ではありますが)、この最も身近な一人ひとりとの関係がうまく築かれていないならばどうなのでしょうか。このエフェソ書と非常に関係の深いコロサイ書では、さらに次のようにまとめています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」(3.12-15)。平和はわたしたち一人ひとりから始まるのであり、それはキリストによる赦しに基づいたものなのです。