ルカによる福音書9.23~27 (2018.10.7) 

今、水曜日の聖書研究会では士師記を読み進めています。先週読んだ箇所に印象深い言葉がありました。それはイスラエルの人々が「主の目に悪とされることを行」っていたというものです(10.6)。具体的には他の神々に仕えることであり、自分たちの神を捨てることでした。主の目に悪とされること、また反対の主の目に正しいことを考えるとき、合わせて人間の目に悪とされることと、人の目に正しいとされることを思い浮かべます。やはり同じ士師記(全部で21章)の一番最後は、次のような言葉で閉じられています。「そのころ、イスラエルには王はなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。これが結びの言葉です。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」との言葉、なかなか意味深長です。前後関係から見ますと、おそらくこの言葉は良い意味ではなく、人間がそれぞれ勝手なことを行っていたということだと思います。申命記の中にこういう律法があります。「あなたたちは…それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」(12.8)。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。この律法の言葉、人間を侮辱しているように聞こえるのではないでしょうか。わたしたちは日々の生活の中で、自分が正しいと見なすこと、その判断に従って行動しているのではないでしょうか。たとえその判断が絶対的でないとは分かりつつも、「自分が正しいと見なすこと」を基準として考え、行動しているのです。

今日は「主の祈り」の第三番目の祈願、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。聖書の言葉では「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です(マタイ6.10)。「主の祈り」はマタイとルカ福音書だけにありますが、どういうわけかこの第三番目の祈願だけはルカにはありません。最初の祈りは「み名」でした。次が「み国」でした。そして三番目は今日の「み心」です。御旨、あるいは神の意思(おもい)という意味でもありましょう。神のみ心は天において、それはみ使いたちによって実現しているように、この地上でも行われますようにとの祈っているのです。ということは、この地上では神の御旨が行われていないということでもあります。それならば誰が、また何が天で行われている御旨を地上で妨げているのでしょうか。

創世記1章の天地創造によりますと、第6日目、神は御自分にかたどって人を創造されました(27節)。そして神は人間を祝福し、地にあるすべての動植物と共に生きるようにされました。それまでは「良かった」という表現でしたが、この第6日の創造だけは「極めて良かった」と記されているほどです。まさに天地万物の創造が神のみ心に沿って完成したのでした。ところが第3章に入りますと、蛇の誘惑から端を発し、人は神との約束を破って罪を犯してしまいました。神のように善悪を知ることのできる木の果実を食べてしまったのです。その結果、アダムとエバは神の顔を避けて生きるようになりました。それだけではありません。夫婦関係、大きくは人間関係の破綻をもたらしました。さらには動植物その他自然との関係においても歪みが生まれました。これこそ聖書が初めから語っていることであり、今日の時代におけるさまざまな問題、苦悩もここから来ているのではないでしょうか。人間は神から離れて生きることに自由を感じ、それが真の自分らしさと錯覚したのでした。まさに放蕩息子が父のもとに生きることを束縛と感じ、父から離れて生きることに、本当の自分があり、本当の自由があると思ったようにです。しかしそこには自由も本来の人間性をも見いだすことはできませんでした。その先にあったのは破れた人間の姿であり、強情さ、自分本位、そしてさ迷う生があるだけでした。天地創造の「極めて良かった」との秩序に基づいて生きていたとき、人は本来の自由と自分らしさに留まることができたのですが、今ではそうした関係は失われてしまっているのです。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。このように祈っているのですが、その地でみこころの実現を妨げているのは、他ならぬ人間なのであり、またわたしたち自身なのです。

イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9.23-24)。わたしたちへの招きの言葉です。ここに「自分を捨てる」という言葉が出てきます。「否定する」と読んでもよいと思います。これは先程の申命記「あなたたちは…自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」と共通します。人はアダム以来、罪の中にあり、神のみ心に沿うことはできませんでした。思いや行いにおいて背いているからです。「自分を捨てる」とは、そのような自分のことです。それに対してイエスはどのように歩まれたか。ゲッセマネにおいて、主はひざまずきこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22.42)。ここには二つの意思(will)が対立しています。自分の意思(イエス)と神の意思(御心)です。イエスは苦しみながらも、最終的には自らの意思を捨て、神の意思に身を任せられました。それが「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」との祈りであり、十字架、究極的な姿につながるものです。わたしたちはどうでしょうか。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この招きを受けながら、日々歩んでいます。また歩もうとしています。ところがある程度までは自分を捨てることができるかもしれませんが、どこかにこれ以上は従い得ない、従わない、そんな自分をも持っているのではないでしょうか。堅い意思というよりは頑迷な意思。それがわたしたちを不自由にもします。主イエスご自身がこのように自らを捨て、神の御旨に従い通すことにより、わたしたちに新しい命を与えてくださいました。それゆえわたしたちはこのイエスに従いつつ、イエスと共に、自らも日々まとわりつく頑迷な肉なる自分を捨てることによって、神の御心の実現に向かって進むようにと招かれているのです。

「み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」。6つある祈りの内、これで3つが終わりました。「み名」「み国」、そして「み心」です。これらは一つひとつ独自なものですが、同時にすべては深く関係してもいます。神の名前が崇められ、神の国が来ますように。そして今日の神の御旨が天で行われていると同じように、この地上でも行われますように。どうしても自分のことを中心に祈っていきやすい傾向にあって、この祈りが導くように自分から離れて、まず神中心にひざまずく。それが天地創造の本来の秩序であり、人間の位置なのです。わたしたちのために、またいつもわたしたちと共に歩んでくださる主イエス・キリストの新たな招きの言葉に従いながら、日々自分を捨て、信仰の道を歩んでいきたいと願います。