ルカによる福音書17.20~21 (2018.9.30) 

「主の祈り」における最初の祈願は「み名を崇めさせたまえ」でした。そして今日、第二番目の祈りに入ります。「み国を来たらせたまえ」です。最初が神の名についての祈りであったのに対し、次の祈りは「み国」、すなわち神の国についての祈りです。「み国を来たらせたまえ」、ここでわたしたちは何を祈っているのでしょうか。何を願っているのでしょうか。

そのためにはまず、「み国」とは何か、それについて知らなければなりません。神の国、あるいは天の国などとも呼ばれていますが、この神の国は主イエスの宣教の中でも中核をなすものでした。荒れ野での40日間にわたる試練を経て、神の福音を宣べ伝えたわけですが、その最初の言葉は次のようなものでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)。このように主イエスの宣教の中心は、「神の国」の到来を告げるものでした。

それではその主イエスが近づいたと言われた「神の国」とはどのような国のことでしょうか。普通わたしたちが国という場合、それは日本という国とか中国という国を思い浮かべるのではないでしょうか。ある面積、領土を持った国です。しかし神の国はそのような国と同じではありません。もちろんからし種やパン種のたとえのように、神の国は成長していく、大きくなっていくというように語られていますから、目には見えなくともそのように広がっていく、大きくなっていくという側面はあります。ただそうした広がりという面だけではなく、支配される領域という点もここには示されています。神の国とは神の支配による領域という面です。それがこの世界において、またわたしたち一人ひとりの中で広がっていくように、また深められていくようにというものです。

その「み国を来たらせたまえ」と祈ります。「来たらせたまえ」、それは「来ますように」ということです。言い換えれば、神の国はわたしたち人間の方からもたらすことのできるものではなく、地上から築き上げることのできるものではないということです。そうではなく、それは神の側からおとずれるのであり、与えられるものであり、それゆえに福音でもあるのです。だから「主の祈り」として祈っているのではないでしょうか。神の支配を待ち望む、神の支配する領域が広がるように、また深まりますように、「み国を来たらせたまえ」と祈っているのです。今この世界には神のみ心を悲しませるさまざまな出来事が多くあります。人間の欲望がもたらす環境破壊、貧富の極端な二極分化や超高齢化社会に突入した先進国に見られる孤独。イギリスでは新たに「孤独担当大臣」という職務が内閣にできたと聞いたとき、それはいかにも現代のわたしたちの社会を反映していると思いました。この世界は何に、また誰に支配されているのだろうか。神の支配ではなく、人間が、そしてその人間の欲望や罪が支配者となり、そこから問題が生じているのではないでしょうか。

それは社会だけではありません。わたしたち一人ひとりにおいても同様です。自分の支配者は誰なのか。もちろんわたしの主人は自分であるということは確かです。食べたいときに食べ、どこかへ行きたいときに行く。けれどもそればかりではありません。時として自分のしたい善を行えず、したくない悪を行ってしまうことがあります。そのとき自分の主人は誰なのでしょう。何に支配されているのでしょうか。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」とパウロは語っているように(ガラテヤ5.17)、「自分のしたいことができない」そのような何かに支配された自分もあります。その支配者とは敵意、争い、ねたみ、怒り、利己心、仲間争いといった主人であり、わたしたちはそうした肉なる力の支配下に置かれているのです。「み国を来たらせたまえ」、その祈りはこうしたわたしたちの現実に直結した祈りなのです。

ファリサイ派の人々が、その神の国はいつ来るのかと尋ねたときのことでした。主イエスはこのように答えられました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。これが神の国がいつ来るのかとの問いに対する答えでした。「あなたがたの間にある」。なかなか意味深長な言葉です。あなたがたのただ中にある、あなたがたの手の届くところにあると理解してもよいと思います。わたしたちが祈り求めている神の国の支配は、まだ遠いところにあるというのではなく、わたしたちの間に、手の届くところに来ているのです。それは別の箇所でイエスが同じようなことを言っておられます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11.20)。

それならばなぜ「み国を来たらせたまえ」と、まだ神の国が来ていないごとく祈るのだろうか。実はここにキリスト者の立っている位置が示されています。わたしたち信仰者は「すでに」と「いまだ…ない」との二つの時の間を歩んでいる者だからです。わたしたちは「すでに罪赦された者である」。しかしまた同時に「いまだ日々罪を犯すような途上の者でもある」。井上良雄先生が書かれた「神の国の証人ブルームハルト父子」という感動的な書物があります。19世紀ドイツの牧師について書かれてものです。そこで重要な言葉として、「待ちつつ急ぎつつ」という信仰者の態度が語られています。これは2ペトロの手紙にある言葉、すなわち「神の国の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」から導き出されたものです(3.12)。それなら「待つこと」と「急ぐこと」は、互いにどのように関係するのでしょうか。この場合、「待つこと」の方が、「急ぐこと」に先立ちます。だから「み国を来たらせたまえ」と、主の支配を祈りながら待っているのです。しかしわたしたちは何もせずにただ待つのではありません。礼拝を守ること、祈ること、隣人に仕えること。そこでは無気力や無関心な態度ではなく、そうした業を行いながら急ぐ者として、まったく違った目でこの世界を、そして自らを見つめていきます。待つ者は、神の国がいつ来るかもしれないということを考え、期待しながら待ちます。それが急ぐことであり、待つことと実際の神の国到来の間に何の隙間もないかのように待つのです。これこそが信仰者の生き方に独特の方向性を与えていきます。「み国を来たらせたまえ」。「主の祈り」の二番目は、このように全き神の支配がこの世界に、そしてわたし自身の中に及びますようにと祈ることであり、それはまた、それに続いて自らもその支配を早めることができるようにとも祈っているのです。それが「待ちつつ、急ぎつつ」という言葉で言い表されるのであり、信仰者の生き方を特徴づけていくのです。