詩編48.9~12 (2018.9.16)
先週から始めました「主の祈り」の講解、今日はその第二回目となります。ここからいよいよ祈りの中身に入っていきます。その第一の祈りが今日取り上げる「み名を崇めさせたまえ」です。そこに入る前に、まずこの祈りの構成と順序を見ておきたいと思います。全部で六つの祈りから成っていますが、それは大きく二つに分けることができます。最初の三つは神に関すること、すなわち「み名を崇めさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」がそれです。そして後半の三つはわたしたち人間に関することです。それは日用の糧といった生活のこと、日々犯す罪の問題、そして悪への誘惑や試練からの救いです。しかもその順序が、神に関することから始まっていることにも注意を向けることは大切です。もしわたしたちがこの「主の祈り」を知らなかったら、おそらくほとんどの人が行っている祈りのように、神を差し置いて、まず自分のことから祈り始めるのではないでしょうか。この「主の祈り」で言えば、四番目の祈りから始めるようにです。わたしたち人間は単独で存在するのではなく、何よりも神の前における人間であるという関係を基礎にしています。本当の自分自身であろうとして神との関係から逃れようとするならば、それは糸の切れた凧のように、自由であるように見えながら実のところ迷走しているにすぎない、まさに放蕩息子そのものにすぎません。まず神が自らの神として崇められ、そこで初めて自分とは何か、どのように歩むべきかの方向性が与えられていくのではないでしょうか。
「ねがわくはみ名を崇めさせたまえ」。最初の言葉は名前、すなわち神の名が取り上げられています。この後、国が出てきます。「み国を来たらせたまえ」。そして三つ目は意思(心)です。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。このように神の名、神の国、神の思い(心)が祈られるのであり、いかにそれらが重要であるかが分かります。しかもその三つは各々独立しているのではなく、相互に深く関係しているといえます。
名前、神の名がなぜ一番最初に来るのか、なぜそれほど重要なのでしょうか。名前というのは世界共通ですが、その人が誰かを示すものです。反対に名を名乗らない、これは匿名です。今ネットの世界では、匿名とか偽名によって多くの無責任と思える言葉が発せられています。それは責任が問われないからでもありましょう。反社会的な行為をした企業などへの罰則の一つに、名前を公表することがあります。それは責任の所在が明らかになるからです。聖書の時代には名前の持つ重みがさらに顕著であり、特に神の名前という場合、それは即神ご自身を指したものでした。たとえば旧約聖書にはエルサレムの神殿を指して、「主がその名を置くために選ばれる場所」という表現がしばしば出てきます(申命記12.11他)。この「名を置く」とは、すなわち神ご自身がおられるということに他なりません。そのように名とはまさに実体、本質と同じなのです。このことはわたしたちの名前とも関係していきます。この後に賛美する讃美歌にもつながっていくものですが、名前を呼ぶ、名を呼ばれるというのは、「誰々さんこっちへいらっしゃい」というような意味だけにとどまらず、人格的な交わりへと神が招いていてくださる、さらには救いへと招き入れてくださっているということなのです。
「ねがわくはみ名を崇めさせたまえ」。ならばその「崇める」とはどういうことでしょうか。聖書協会訳では明治時代の文語訳聖書以来ずっと「崇める」と訳してきました。ですから今わたしたちが祈っている「主の祈り」、これは1880年に定められたものですが、それ以来ずっと今日まで来ているということになります。原語は「ハギアゾー」という動詞で、聖とするという意味です。昨年宗教改革500年に発行された「いのちのことば社」の聖書「新改訳2017」では「聖なるものとされますように」(岩波訳も同じ)と訳されています。日本語訳では「崇める」より「聖」という言葉を使っている方が多いようです。英語ではほとんどが“Hallowed”という訳を用いているようです。これなら崇められますように、聖とされますように、どちらの意味も含まれているということでしょうか。
神が聖とされるの反対は汚されるということです。旧約聖書の歴史を見ますと、神の名がイスラエルの民によって幾たびか汚されてきました。「彼らは行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した」と預言者エゼキエルが語っているとおりです(エゼキエル36.20)。彼らはその言葉と行いにおいて、み心に背いていたからです。証しができなかったのです。それならわたしたちはどうなのでしょうか。神を崇めている者として生きているでしょうか。言い換えれば、自分中心となり、自分を高く上げていて、その分神を低めているのではないでしょうか。神は天地万物の創造主です。そして人間はすべての地上にある者同様被造物です。ところがその立場を忘れて、バベルの塔の建設のように人間は神のように高くなろうとしてきました。現在もそうです。人間の作ったものを、この世的なものを誇ろうとしていく。それは結局、神をないがしろにして自分を高くしていくことでもあります。モーセの「十戒」の第三戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。わたしたちは祈りにおいてすら、人間が主となり、神を従として、あたかも召し使いのように利用しているのではないでしょうか。「……してください」、「……をしないでください」というように、言葉としてはお願いですが、実際は自分が主人となっているのです。
今日開いた詩編の一節に、「神よ、神殿にあってわたしたちはあなたの慈しみを思い描く。神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ」とありました(10-11)。「賛美は御名と共に地の果てに及ぶ」。神のみ名はご自身においてとこしえに高くそびえ、人間によって左右されることはありません。けれどもそれと共にわたしたちの賛美と証しをも必要としています。わたしたちによってその名が汚されるのではなく、いっそう崇められ、聖とされなくてはなりません。主イエスがわたしたちに教えてくださった「主の祈り」の一番初めは、「み名を崇めさせたまえ」でした。神はわたしたちに何が必要か、何が必要でないかをあらかじめご存じです。わたしたちの罪と弱さ、不安定さをもよく知っておられます。だからこそ御子イエスが肉なる姿を取られ、しかも僕としてこの世に仕えることによって、わたしたちを神に属する者としてくださいました。わたしたちが現実の生活で関心があるものは、この後で四番目からの祈りに入っていきます。健康のこと、将来の生活のこと、仕事のこと、学校のこと。それらの必要を主イエスは忘れておられるわけではありません。ただその前に、まず第一にわたしたちにとって重要なことは、神の名、すなわち神ご自身がわたしたちにおいて、この世において崇められなくてはならない、それが自分にとって、またこの世界すべての初めとしなくてはならないということなのです。