マルコ4.35~41 (2018.2.11)

毎年のことですが、現在は受験シーズンに入っています。これから来月にかけて受験をする学生のみならず、その家族にとっても落ち着かない日々が続きます。そうした変化、それは何も学生だけではありません。社会人にとっても人事異動があり、それに伴い転勤もあるでしょう。またその先には定年退職もあります。このように、この季節はそれぞれが転機を迎えるときとなります。それは言い換えますと、新しい環境に入ることであり、同時にこれまで慣れ親しんできた生活を後にするということでもあります。

主イエスはおそらくガリラヤ湖の北のカファルナウム周辺で活動しておられたのでしょう。その後、弟子たちに向こう岸に渡ろうと言われました。向こう岸とは、次の5章に出てきますゲラサ人の地域で、カファルナウムから南下した反対側の地方です。地図で見ますと距離は20㎞くらいでしょうか。それほど遠い距離ではありません。ところがその湖で嵐に襲われるという予期せぬ出来事にあいました。しかしまたその嵐という逆風を通して、弟子たちの信仰が強められる機会ともなりました。

「向こう岸に渡ろう」とは20㎞先の村へ行こうということだけではなく、今の場所を離れようということでもあります。言い換えれば、同じ場所にとどまっていないで、たとえ今の場所が慣れた居心地の良い場所であったとしても、そこから離れてイエスが指し示される場所に向おうということではないでしょうか。そして新たな課題に挑戦しようというものです。今の慣れ親しんだ場所を離れること、そしてこれからどうなるか分からない未知なる方向に進むのは気の進まないことかもしれません。当然そこでは新たな困難が待ち構えています。けれどもわたしたちはそうした試練を通して、それまで気づかなかった神の恵みにあずかることでもあります。自分を固定化してしまうのではなく、またあきらめてしまうのでもなく、イエスの言葉を信じて今の場所を離れることの大切さ。

「向こう岸に渡ろう」、それは聖書全体におけるメッセージであるとも言えます。今水曜の聖研ではヨシュア記を読んでいます。これもまたヨルダン川を前にして、約束の地「向こう岸に渡ろう」から始まっています。その前のモーセも同じです。目の前に行き止まりに見えた巨大な海がありました。それでも主なる神はその向こう岸を指し示されました。向こう岸へ渡る、その先にはいつもすばらしいことがあるわけではありません。むしろその途上ではさまざまな問題が生まれ、挫折もありました。それが荒れ野の40年であり、ヨルダン川以降の歩みでもあります。イスラエルの民はその度に前の生活を懐かしみました。「こんな苦しいことならば、来なければよかった」。けれども人々は苦難を通して、また苦難のただ中にある信仰の祝福を体験していきました。「向こう岸に渡ろう」、それは新しい世界への挑戦であり、同時に今の場所に別れを告げることでもあります。まさにパウロも語る通りです。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3.13-14)。

弟子たちの新たな旅にも困難が生じました。激しい突風が起こり、舟が波をかぶって沈みそうになったのです。ガリラヤ湖は周囲が山々に囲まれていて、ちょうどすり鉢のような地形をしていますから天候が急変するそうです。今起きている嵐もそれなのでしょう。弟子たちはイエスに訴えました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。彼らのあわてようは、よほどの嵐だったに違いありません。ただ彼らがあわたてのは、突然の大きな嵐ということだけではありません。彼らの経験が役に立たなかったからでもあります。弟子たちの多くはかつてこのガリラヤ湖で漁師をしていました。つまり自分たちの庭のように熟知していた所です。それにもかかわらず、自分たちのこれまでの経験では対処できないような出来事に遭遇したのでした。まもなく東日本大震災から7年が経とうとしています。被災者の中には、当然漁師の方も多くいました。しかし彼らは自然の驚異の前にはなすすべもありませんでした。それは何も漁師に限ったことではありません。確かにわたしたちのこれまでの経験から判断できること、対処できることもあるでしょう。しかし中にはそれまで経験したことのない出来事、積み上げた知識から判断できないようなむずかしい局面に遭遇することもあります。そうしたとき人はあわてるものです。ここで弟子たちが取り乱したのは、大きな嵐が突然襲ったからというだけではなく、自分たちの経験を超えた逆風に出合ったからではないでしょうか。それゆえに気持ちが飲み込まれてしまったのです。

その嵐を前にした弟子たちに対し、イエスの態度に印象的なことが二つあります。一つは嵐の中で眠っておられたことです。嵐の中で眠るイエス、弟子たちとは対照的な姿です。このイエスの眠りは平安の象徴と捉えることができるのではないでしょうか。反対に眠れないとはどういうことでしょう。それは不安のしるしでもあります。人は何らかの不安、深刻な悩みを抱えていますと、睡眠に影響を与えます。イエスのこの極端とも思える嵐のさなかでの眠りには、どんな現実の厳しさに遭遇しても、神に対する平安、信頼が揺るがないことを示しているのではないでしょうか。もう一つは、嵐を静められたことです。ここにはイエス自身に神の力が宿っていることを表しています。「黙れ。沈まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になりました。そこで弟子たちが互いに言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」。イエスの大いなる力がここで示されたのでした。

実はこのガリラヤ湖に浮かぶ嵐の中の舟、それは教会の姿でもあります。従ってそこで取り乱す弟子たちは、現在のわたしたち自身でもあるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。これが現実のわたしたちの姿です。信仰と不信仰が入り混じる日々の生活。それを表現したのが先程賛美した讃美歌273番です。これは18世紀のチャールズ・ウェスレーの作で、「波はさかまき 風ふきあれて 沈むばかりの この身を守り 天のみなとに みちびきたまえ」と信仰者の旅の姿をうたっています。こうした賛美は詩編にも多くあり、その代表として107編を挙げることができます。「主は仰せによって嵐を起こし 波を高くされたので 彼らは天に上り、深淵に下り 苦難に魂は溶け 酔った人のようによろめき、揺らぎ どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った」(25-30)。「向こう岸に渡ろう」、すなわち今の場所を離れることの不安、そしてそれによってもたらされるさまざまな試練、けれども主イエスはいつもそのようなわたしたちと共にいてくださり、波を静め、溺れそうなときには引き上げ、最後には約束の港へと導いてくださいます。それが今も続いているわたしたち信仰生活の旅路なのです。