マルコ3.20~30 (2018.2.25)

CSの教師間でよく話題になるものに、聖書の言葉をどのように子どもたちに伝えるか、そのむずかしさがあります。大人の礼拝では多くがすでに信仰者であるということから、その共通の前提で話を進めることが可能です。ところがCSのほうでは相手がまだ子どもであり(それも異年齢の)、しかも信仰告白をする前の段階ですから、そのアプローチも異なってきます。どうしても伝道的な視点で礼拝に臨むことになります。これに関してはキリスト教に基づいた(いわゆるキリスト教主義の)幼稚園(保育園)から大学生に至るまで、聖書講義や礼拝をカリキュラムに入れているところでは、それが毎日のことだけに大変だろうと思います。特に教務教師のご苦労は祈らずにはいられません。

主イエスは神の国の到来を告げ、そこでは多くの言葉と驚くべき業を行いつつ、人々に悔い改めと救いの喜びを語りました。ところがその神の国の到来や救いがすべて目に見えるというわけではありません。わたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」からです(2コリント5.7)。先日新聞で誤変換についての記事を目にしました。コピペが多くなっている現状が背景にあります。その中でこんなものがありました。「牧師さんの前で愛を誓う」。これは結婚式の誓いの場面でしょう。それが「僕、資産の前で愛を誓う」と変換されてしまったというものです。これの方が現実的で、分かりやすいのかもしれません。神の国、そしてその信仰を伝えることのむずかしさ、それゆえまたさまざまな誤解をも生むことになりがちなのです。

今日の箇所にはイエスを巡って、二つの誤解がありました。一つは身内から、もう一つは外部からです。その一つである身内。イエスが宣教活動に忙しくし、食事をする暇もない、そんなときでした。身内の者たちがイエスを取り押さえに来ました。「あの男は気が変になっている」と言われていたからでした。そう言っていたのは世間の人々です。それなら家族の者はそうした世間体を気にして取り押さえようとしただけなのでしょうか。そうでもないようです。31節以降を読みますと、家族の者も同じように誤解していたようです。イエスはなぜ気が狂っていると思われたのでしょうか。

「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」。これはフェストゥスというローマの総督の言葉です(使徒26.24)。パウロが自らの回心について語り、特に最後のところでキリストが苦しみを受け、死者の中から復活されたことを述べた後の言葉でした。実際に気が変になっているということではなく、自然のままの肉なる人間にはそれがどうしても受け入れられず、勢い頭おかしいという反応を生じさせたのだろうと思います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあるように(1コリント1.18)、イエスの救いの真理は逆説の中にあり、そこに至らせるのが信仰なのです。

もう一つの誤解は律法学者からのものでした。彼らは言いました。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。ベルゼブルとは悪霊の頭といった意味です。悪霊の頭として、悪霊を追い出している。だからイエスが行っているさまざまな働きは、内輪どうしの争いであって、ごまかしであるというようなことでしょう。これがイエスに投げかけられた偏見であり、誤解だったのです。彼は汚れた霊に取りつかれているというものです。

それに対しイエスはこう反論しました。悪霊の頭として悪霊を追い出しているというなら、それは内輪もめである。どのような国や家でも、内輪で争えばそれが成り立たなくなってしまう。これは一般社会でも通用する常識です。しかしそうではなくて、イエス自身は悪霊の頭、すなわちベルゼブルの敵対者として悪霊を追い出しているのである。イエスはベルゼブル(サタン)に取りつかれているのではなく、逆にベルゼブルの敵として人々を支配し、苦しめている闇の霊と戦っているというものです。

そして言われました。「はっきり言っておく」。この「はっきり」という言葉、原語では「アーメン」です。アーメンとは、ギリシア語というより、さらに遡って旧約のヘブライ語として用いられてきました。意味としては強い確信を持ってまことに、本当にということです。それをあえて翻訳せず、ヘブライ語をそのまま音訳して、新約ではギリシア語に、また今日の世界の言語でもそのままアーメンと表記しています。これは特に神の賛美(頌栄)の後に用いています。今日の教会でも同じです。それは今言いましたように、その神の賛美に対し、まことにそのとおりですとの確信を表す意味で、アーメンと唱和しているのです。ただそれだけではありません。そのように唱和する自分自身も、その言葉に対し責任をもって参与する、そうした意思表示でもあります。

それに対してここイエスのアーメンは二つの点で際立っています。一つは通常は他人の言葉に対してアーメンというのですが、ここではイエス自らが語る言葉に対してアーメンと言っているのです。「アーメンわたしは言っておく…」。もう一つは他人の言葉を受けて言う場合には、当然その言葉が終わった後に唱和するものです(「主の祈り」等)。ところがイエスは自分の言葉の冒頭で使っているのです。「アーメン(はっきり)言っておく」。それはご自分が語る言葉が、まことに真理であるとの自信から生まれたものなのです。

「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に責めを負う」。アーメンの後、このようにイエスは赦される罪と赦されないことについて語りました。一方ではすべてを包もうとする神の恵み、その信じがたいまでの広さを述べ、それをわたしたちが心から受け止めるならば、誰一人として除外されることがない。まさにすべてが赦される。ところが他方では、霊の力に満ちたイエスの恵みの業を実際目にしながらも、それを悪霊に取りつかれているとか、気が狂っているとかと言って疑いを持ったり、拒否したりすることは、今あなたがたの只中で働いている聖霊を冒瀆するもので赦されないというのです。疑うことではなく、心から信じることの大切さを教えておられるのです。それは神の慈愛と峻厳の間をわたしたちは生きるということでもあります(ローマ11.22)。神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはわたしたちに例外なく豊かに注がれます。しかしもう一方には神の厳しさがあります。思い上がりや不信仰にはそれが容赦なく臨むというのです。神の慈しみと厳しさ、受難節においてわたしたちはこの二つの間に挟まれた細い道を歩んでいくのです。