マルコ1.12~13 (2018.2.18)

先週の水曜日(14日)からレントに入りました。それ以降、日曜日を除いた40日間を受難節として歩んでいきます。40と言う数字は今日の箇所にも出てきますように、聖書では特別の意味を持った聖数です。特に神の祝福に到達までの期間、それは苦難や試練を伴う期間として旧新約両方において用いられてきました。たとえばモーセに率いられたイスラエルの民が約束の地という祝福を得るまでに経験した荒れ野の40年の旅。そのモーセがシナイ山で「十戒」という律法を与えられる前には、4040夜にわたる断食を経験しました。そしてこの朝のイエス、彼にとってもまた40日は試練の期間でした。そのような40日をわたしたちも歩み始めました。その後、イエスの復活をお祝いするイースターを迎えます。40日の期間はイエスの受難に心を向けつつ、それがわたしたちの罪のためであることから、受難のキリストのもとで自らを見つめ、悔い改めの期間として歩んでいきます。一昔前には克己という言葉も使われていましたが、それもまたこの受難節における悔い改めの一つの信仰の在り方でありましょう。

今日の宣教題を「サタンの試み」としましたが、実はそれを決めるのにずいぶん迷いました。そのタイトルがふさわしいかどうかという思いからです。皆さんもお気づきのことと思いますが、ここマルコによる福音書では、イエスの荒れ野の40日にわたるサタンの試みは、わずか2節だけ、行にして4行でしかありません。しかもそこには試みの中身が記されていません。通常わたしたちが馴染んでいるものは、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉に代表される、あのサタンとの遣り取りです。ところがそうした遣り取りは、ここマルコにはありません。「サタンから誘惑を受けられた」と書かれていますが、どのような誘惑を受けられたのか、内容が記されていないのです(マタイやルカのように)。従って今日の箇所の中心をサタンの誘惑にしてよいのかどうか、それがタイトルをつけるときの迷いでした。

他の福音書との関連で述べておきますが、マルコ福音書は福音書の中で一番短く、その記事の多くは特にマタイ福音書と重複しています。そのため古代からマルコはマタイを短くまとめたような福音書、それゆえマタイを読めばすむというような、そうした受取り方がなされてきました。ところが近年の研究により、マルコが一番最初に書かれた福音書であることが分かってきました。マタイとルカはマルコ福音書を知っていて、それを資料にしながら、その上に自分たちが持っていた新たな資料を各々の福音書に書き加えていったのです。「人はパンだけで生きるものではない」というマタイ、ルカに出てくるサタンとの遣り取りの言葉は、彼らが手にしていた共通の資料から付け加えていったものなのです。従ってマルコはマタイを短くまとめたというものではなく、むしろ反対にマタイがマルコを下敷きにしながら、そこに新たなイエスの言葉や業を書き加えたのでした。

それならば一番古い福音書、そこにあるイエスがサタンから誘惑を受けるところは、今日の箇所にある通りたった2節でしかありません。サタンとの遣り取りもないこのような短い箇所で、いったい何が語られているのでしょうか。ここにはイエスを巡って四種の存在が出てきます。霊、サタン、野獣、そして天使です。まず最初の霊、もちろんそれは聖霊のことですが、イエスが荒れ野に行ったのは神の霊に送り出されたからでした。荒れ野、または荒れ地、それは植物が実を結ぶことのない不毛の場所です。現在のわたしたちも、比ゆ的にこうした言葉を用いることがあります。何か思うようにいかない不遇な環境、そうした時代を荒れ野のような場所であり、荒れ野のような時代であったと語ることがあります。確かにイスラエルの荒れ野の40年も、それは欠乏の40年であり、それに伴い人間の貧しさや不信仰、元気そうであっても一瞬にしてもろく崩れていく人間性が露呈する時代でした。

けれども荒れ野はそうした面だけではありません。逆の面もあります。荒れ野には人々が住む町とは違って何もありません。それゆれ余計なものに邪魔されず、物事がよく見える場所でもあります。人々は荒れ野がもたらす苦難を通して、また苦難の只中で神の恵みに出会うことがありました。それを預言者ホセアは次のように述べています。「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした」(9.10)。信仰の出会いは町にではなく、荒れ野にあったのです。そこはバプテスマのヨハネも活動した場所であるように、都市では見えない神のさまざまな恵みがよく見える場所でもあったのです。神に近い場所という側面です。

もちろんそこには誘惑するサタンがいました。野獣も住んでいました。野獣が住む、それは山犬がうずくまり、獅子がほえ、さそりが待ち構えている場所です。イエスが40日間送り出された荒れ野とは、そのようにサタンからの攻撃を受け、野獣に取り巻かれているような場所におられたということです。言い換えれば危険なところにおられたのであり、恐れに支配されていたのであり、孤独であったということです。今日こうした荒れ野とはどこに相当するのでしょうか。先日起きた札幌での火災事故では11人の方が亡くなりました。なかなか受け入れ先の見つからない、困窮した人々が暮らしていた共同住宅だったと報じられています。座間市では自殺願望があったと言われる若い人々が殺害されました。断片的な報道に頼るだけでは、よく分からない出来事です。そのように現代でも荒れ野は至るところにあるのではないでしょうか。

それでもその荒れ野には天使たちもいました。悪魔が働くと同じように、天使たちも働き、イエスに仕えていたのです。この「仕える」という言葉は、礼拝するというよりは、いろいろな世話をするという意味です。預言者エリヤが彼を憎む王アハブから追われ、ついに行き詰ったときのことでした。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。このような絶望的な言葉を口にしています。そのとき御使いが彼に言いました。「起きて食べよ」。見ると、枕もとにパンと水がありました。御使いは言いました。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。エリヤはその食べ物に力を得、再出発したのでした(列王記下19章)。

サタンによる誘惑、そしてイエスに仕える天使たち。それはこの荒れ野だけで終わったわけではありません。イエスが十字架に向う生涯のすべてがサタンの攻撃にさらされたものであり、また天使たちも仕えていくことでもありました。わたしたちもこれから3月いっぱいを、荒れ野の40日を覚えて歩んでいきます。それは悪魔の攻撃にさらされる旅であり、天使たちに守られた旅でもあります。不安や孤独や思い煩いが一方にあり、他方には祝福と希望があります。さらに言うならば、荒れ野という厳しい場所を通して、またその只中でキリストの恵みに出会うときでもあるのです。使徒パウロが次のように励ましています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(1コリント10.13)。主イエスを見上げつつ、わたしたちも同じように歩んでいきたいと思います。