マルコ9.2~13 (2018.3.11)

今日は未曾有の東日本大震災からちょうど7年目になります。亡くなられた多くの方々、消息さえ分からないままの方々、今もさまざまな痛手をこうむったままで苦しんでおられる方々、そしてそれに何とか立ち向かっていこうとする全国の多くの支援者。今日は各地でこの出来事を覚えて記念行事が行われると思いますが、わたしたちもこの地にあって心から祈りたいと思います。

旧約聖書には多くの偉大な人物が出てきます。皆さんはどんな人物を思い起こすでしょうか。アブラハム、モーセ、ダビデ?  ヨセフの物語もなかなか面白いですね。それ以外にも大変多くの人々が出てきます。そうした人物を書き記しているものにヘブライ書11章がありますが、もちろんそれですべてではありません。だからその章の終わりのほうで、「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」と言っているくらいです(32節)。

今日の箇所に出てくるモーセとエリヤ、この二人は中でも特に有名です。彼らは新約時代に入っても大きな影響を与えてきました。その一人モーセ、この人物については言うまでもないかもしれません。エジプトからの脱出を実現し、紅海(葦の海)を切り開き、荒れ野の40年という苦難の旅路を導いた人です。またシナイ山にて「十戒」という律法を神から授けられました。もう一人のエリヤは、ずっと時代が下って王国時代の預言者でした。彼は当時の王アハブの悪政と不信仰を批判することにより、王室から激しい迫害を受けました。それでもただ神の言葉、信仰のみを武器として戦い続けたのでした。

このように二人は共に偉大な人物であったわけですが、今一つ共通するものがあります。それは死を見ることなく天に上げられたということです。たしかにモーセはピスガの頂に登り、そこで約束の地を見ながら120歳で死んだとあります。けれども「モアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とも書かれてもいます(申命記34.6)。エリヤについては、はっきりと、生きながら天に上げられたと書かれています。「彼ら(弟子のエリシャと一緒)が話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王記下2.11)。それゆえこの二人は、世の中を整えるために終わりのときに再び現れるという信仰がユダヤの人々の中で生きていたのでした。

マルコ9章でイエスがモーセとエリヤと三人一緒に語り合う場面があります。それはこうした期待がもたらしたものでした。イエスは12弟子の中でも特にペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登りました。12弟子の中でも三人は特別だったようです。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園においてもこの三人を選んでいます。その山でイエスの姿が変わりました。これを日本のキリスト教の伝統では「変貌のキリスト」と呼んできました。ところが近年では「貌」という字がむずかしいのか、「変容」と言われる傾向にあります。また本日の宣教題のように「姿が変わる」という言い方を用いることもあります。まさにそのとき、エリヤとモーセが共に現れてイエスと語り合っていました。何を語り合っていたのでしょうか。平行記事のルカ福音書を見ますと、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と書かれています(9.31)。最期とは十字架の苦難の死です。そんなことはペトロが知るよしもありません。彼は自らの師であるイエスと、旧約以来の待望されてきたエリヤとモーセを目の当たりにしたとき、次のように言うのでした。「先生(ラビ)、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」。仮小屋とは旧約の荒れ野時代の幕屋のことで、神が臨在する場所です。ペトロは自分の前で繰り広げられるあまりの神々しさから、このような言葉を語ったのでしょうか。「雲が現れて彼らを覆った」との描写も同じです。神の栄光がこの場所に満ちていたからです。そのとき「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声が雲の中から聞こえました。

山を下るときのことです。イエスは自らが苦しみや辱めをお受けになることを語られました。山の上では輝く衣を着た姿に変わり、モーセとエリヤとの対面があり、さらには天からの声がありました。まさに栄光のイエスが示されたときでした。ところが下山する途中では、今度は苦難について語られたのです。

弟子たちがイエスに尋ねました。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。エリヤは人々が自らの心を神に向けるよう、道を整える人として信じられていました。そのエリヤはいつ来るのか。そのエリヤとはだれなのでしょうか。そういった問いです。イエスはそれに対して、エリヤとは洗礼者ヨハネであることを示されました。洗礼者ヨハネは主イエスの前を歩いて、道を整えるために来ました。彼こそ来たるべきエリヤだったのです。しかし人々は彼を好きなようにあしらい、最後には殺してしまいました。それと同じようにイエスも苦難の道を歩むことを語るのでした。

このように山の上と山の下、そこでは栄光のイエスと共に苦難のイエスが示されました。けれどもそれは決して二人のイエスがおられるということではありません。同じただ一人のイエスがおられるだけです。栄光の中に苦難があり、苦難の中に栄光が現されるからです。さらに言うならば、イエスの苦難の只中に栄光があるということでもあります。聖書において、栄光はこの世的な栄誉ということではありません。そうではなく、キリストの十字架の死が栄光なのであり、それによって信じる人々に命をもたらすものなのです。

姿が変わるイエス、そこに示されている栄光と苦難は、主イエスに続く信仰者の姿にもつながっていきます。この「姿が変わる」という変貌のイエス、それは服を着替えるとか、変装でもして外見を変えるという程度のものではなく、従来の姿を超えたまったく新しい姿を意味します。この言葉は信仰者について次のように語られていきます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12.2)。この「変えていただく」との言葉。もう一箇所あります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3.18)。この「造りかえられる」も同様です。このようにイエスとは違った意味ではありますが、わたしたちもまた本質的に新しい姿に変えられていくのです。苦難の道をひたすら歩む主イエスを見つめながら、そこに隠されている栄光ある恵みを覚えることができるよう祈ります。